2012年01月19日

破壊を受け入れる

瀕死のコダックと飛躍する富士フイルム(The Economist - JBpress)

同じフィルムメーカーでありながら、瀕死を通り越して本日「死んでしまった」コダックと、飛躍を続ける富士フィルムについて。

(記事より)
 どちらの企業も変化の到来を察知していた。コダックの元幹部で現在はロチェスター大学サイモン経営大学院で教鞭を執っているラリー・マットソン氏は、1979年に、市場の様々な部分がどのようにフィルムからデジタルに切り替わるかを詳述した報告書を書いたという。

 最初は政府の偵察機器、次に専門家の写真撮影、そして最後には大衆市場と、すべてが2010年までにデジタル化すると、かなり正確に説明していた。マットソン氏の見通しは数年ずれているだけだった。

 富士フイルムも、1980年代にはデジタルがもたらす運命の予兆を感じていた。同社は3本立ての戦略を立てた。フィルム事業からできるだけ多くの利益を上げる、デジタルへの転換に備える、そして新規事業を開発する、というものだ。

 両社とも、デジタル写真そのものが大きな利益を生まないことに気付いていた。「賢明なビジネスマンは、1ドルの売り上げで70セントの利益を稼ぐフィルム事業から、せいぜい5セントしか稼げないデジタル事業に急いで転換しないことがベストだと結論づけていた」とマットソン氏は話す。


破壊的技術はビジネスモデルを破壊する。そのビジネスモデルが自社の主たる収益源であるなら尚のこと、破壊的技術を受け入れて収益を減らすよりも、遠ざけて収益を守ろうとするのは、経営者の防衛本能というものだろう。


しかし自社で破壊的技術を受け入れなくても

破壊的技術を受け入れる他社は必ず現れる

その時に慌てて対応しても もう遅いのだ

それがコダックと富士フィルムの明暗を分けた
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2011年07月15日

噂の事情

多国籍企業「日本人学生は要らない。インド、中国から雇う」の真実(やまもといちろうBLOG)

「外資系企業は日本人の学生を採用しない」という話について。ある意味真実なのだが、それは日本人学生の優劣とは別の理由があるわけで…

(エントリより)
● もともと多国籍企業では学卒をいきなりリクルーティングするという行動原理があんまない

<略>

● 何で中国人やインド人を採るの? 理由その1は現地採用

<略>

● 何で中国人やインド人を採るの? 理由その2は離職率の高さ

<略>

● 何で中国人やインド人を採るの? 理由その3は縁故採用

<略>

● 就職する日本の学生さんについて

 あんまり日本の就職事情についての話は議論されないのだが、日本の学生が優秀でないというよりも、そもそも社会に出ていないのだからスキルがゼロであって、高いカネをかけて採用するはずがないじゃないのと切られて終わり。日本の労働市場の硬直性がどうのという話もあったが、負けず劣らず欧州も雇用システムはどうしようもないので、みんな採用には苦労をしている。

 マネジメントレベルでいうと、現地で仕事を任せるソルジャー採用と、高い学識と想像しうるポテンシャルを持っているので獲得する幹部採用とでは、やはりモノの考え方は違う。あと、やはり会社やトップによって採用については哲学が違う。現場のモノづくりやプログラマーのバイトから採用したいとする人もあれば、FacebookやLinkedInの採用を試験的に増やしてみたという人もいる。
posted by かせっち at 21:44| Comment(5) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月22日

非営利と手弁当の越えられない壁

非営利団体の運営にも経営視点や資金が必要という当たり前のこと(ガ島通信)

経営が立ち行かなくなってきたメディア企業に代わり、組織ジャーナリズムを担う期待を集めているNPO(非営利団体)。しかし「非営利」という言葉を「無給」「手弁当」「ボランティア」と読み替える日本的解釈がNPOの活動を歪めている。

(エントリより)
非営利であれば、なおさら経営的な考えが必要です。

まず、組織がある時点でマネジメントが必要になります。いくら崇高な目的があっても人が参加し、自発的に動いてくれるとは限りません。お金や地位というインセンティブがある企業とは違い、非営利の場合は目的やモチベーションが重要です。上司や部下の関係もつくりにくく、指示しても話を聞くとは限りません。

次に活動維持の資金が必要になります。人が動き、集まるだけでお金がかかります。都内であれば打ち合わせの会議室代、マックやスタバも飲食費が必要になります。

人のコストもあります。集まって話しているということは学生ならアルバイトなど収入を得ることが出来ません。大企業やマスメディアにいるとこの部分のコストに気付かない人がいます。平気でベンチャー企業家やフリーエディターやコンサルタントをご相談などといって呼び出すのはここが分かってないから、フリーの人にとっては時間が最も貴重です。蛇足ですがここがコストという理解がないので無駄な会議が減らない…

活動資金集めは、ベンチャー企業だけの課題ではないのです。

アメリカ公共図書館を取材している菅谷明子さんの「未来をつくる図書館ーニューヨークからの報告ー」には資金調達や広報を専門に行う担当者がいて、工夫を凝らしてお金を集めていることが書かれています。とてもよい本なのでぜひ読んでください。

非営利活動だけでなく公共セクターもそうですが、いわゆる「いいこと」をやっている団体が多くありますが、だからと言って人がお金を出すかというとそうでもありません。営利企業よりむしろ資金調達は難しい。その理由は、日本ではお金の話をすることが嫌われる傾向にあるからです。


20代の若者が、“心のキレイ”な人を食い物にしている(BusinessMedia 誠)

「非営利」を「手弁当」と誤解しているNPO運営者の実例。

(記事より)
 「今の若い人は、40代以上の世代に比べて心がキレイ。だから給与や賞与について不満をいわない。彼らは心が満たされた世代だから」――。

 とある教育分野のNPO(特定非営利活動法人)の理事長がこう言った。彼は、自らが運営するNPOで働く20代の職員らについて語り始めた。有名私立大学で教育学を研究する50代後半の教授であるだけに、理路整然と話す。本人いわく、NPOで若き職員らと“実験的な活動”をすることで研究成果を確かめようとしているのだという。

 私は、この言葉を聞いたときにその場をボイコットしようと思うくらいの嫌悪感を覚えた。このNPOの職員は現在15人ほど。平均年齢は28歳。その大半が大学を卒業し、夢を持って入ってくるものの30歳前後で辞めていく。毎月の給与は平均で20万円ほど。手取りは17万円台になる人もいる。当然、賞与はない。これは職員数人から聞いた話だが、業務の一環で教育委員会などに行くときでも、交通費は自腹を切ることがあるという。

 劣悪な労働条件の中で部下たちを働かせておきながら、理事長は「彼らは心がキレイ」「給与や賞与について不満をいわない」などと口にする。話し合いを終えたあと、その場に同席した編集者と話すと、驚くことを言い始めた。「NPOはボランティアだから、あのような労働条件でも仕方がない」。会社という“安全地帯”に身を置きつつ、辛らつな批評をする姿はいかにも会社員らしい。

<略>

 竹井さんは最後にこう話してくれた。

 「心のキレイな人たちが持続可能な活動を行うためには、まっとうな報酬が必要。欧米のNPOでは当たり前の理屈だ。日本の社会もこのことを理解する必要がある」と。


全国に広がる“タイガーマスク”現象―【私の論評】この現象は、財務官僚が財政民主主義的立場を堅持することから、やむなく発生してきたものという見方もできる?!(Funny Restaurant)

タイガーマスク現象を枕に、経営感覚を持つ欧米型NPOを紹介するyutakarlson氏のブログ。氏の主張のベースになっているドラッカーのNPO論は、最初とりあげたガ島通信の記事の纏めで紹介している『非営利組織の経営』となる(おお、繋がった…)。

(エントリより)
さて、今回のこの現象について、結論からいいますが、私は、日本では、アメリカなどのようにたとえば、施設の子供たちを支援するような有力なNPOや、NPOに対して、多くの寄付金が集まる仕組みなどがないため、「タイガーマスク」のような人たちが、具体的に行動しようにもできないため、いわゆる現在いわれている「タイガーマスク現象」のような行動をしているのではないかと思うのです。

自分の善意を届けたいと思った場合、アメリカなどの場合は、子どもたちを支援するようなNPOが全国に星の数ほどあり、たいていのNPOは地域に密着しているので、かなり、具体的で本当に役立つ末永い活動ができます。しかも、身近な存在なので、寄付したり、何か行動しようとした場合に、誰もが思い立ったらすぐできます。

NPOというと、日本の場合は、あまりに規模小さく、それに経済的にも非力な組織が多いため、本当に限定的な活動しかできないためほとんど目立ちません。さらに、日本では、未だに多くの人々が「NPOとは、奇特な人々が手弁当で集まってやる事業」くらいの認識しか持ち合わせていないようです。そうして、ボランティアの意味をとり違えています。ボランティアの意味は、本来は、他人の意思や、地域とのしがらみなどで実施するのではなく、あくまで自分の意思で行うことを意味するのであって、もともとは、軍隊に志願するときなどに使われた言葉です、無給、無賃金で労働することを意味するものではありません。実際、アメリカでは有給のボランティア活動もいくらでもあります。



二宮尊徳の言葉(とされるもの):

道徳を忘れた経済は罪悪である

経済を忘れた道徳は寝言である
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2010年12月17日

供給過剰の行きつく果て

長い間デフレ状態にある日本経済。その原因の一つとして、生産者の供給能力が消費者の需要を上回っている事が挙げられる。消費者が欲しがる以上にモノが溢れ返った時、消費行動に何が起きるのか?

What's Mine is Yours - 書評 - シェア(404 Blog Not Found)

(エントリより)
20世紀の潮流は、「〈利用する〉から〈所有する〉へ」だった。「マイ」カーに「パーソナル」コンピューター。共有することの不便を、占有できるほど安く大量に製造することで解決してきた。前々世紀までは一部の選ばれた人しか味わえなかった便益を、そうして誰もが味わえるようになったことは人類の偉大な功績といってよいだろう。傘から携帯電話まで、人類の叡智が神の叡智に劣らぬことはルシフェル様も同意するしかないだろう。

それがなぜ、いま「〈所有する〉から〈利用する〉へ」なのか?

不況だからではない。

資源が枯渇したからではない。

一部の選ばれた人しか味わっていなかった、所有のうざさもまた誰もが味わうようになったからだ。

なぜ週末しか乗らない自家用車のために、ひと一人が十分住める不動産を用意し、固定資産税に匹敵する維持費用を払わなければならないのか?一生に15分しか使わない工作用ドリルをガレージに死蔵するのか?

必要なときに、必要なものを、必要なだけ使えた方が、よいのではないか?


何故モノを所有しなければならなかったのか?それはモノの供給が需要を下回っていたから。希少なモノを得る確実な方法は、モノを「所有(占有)」しておくことだ。

ところがモノの供給が需要を上回っていると、消費者はいつでもモノを手に入れられるので、モノを所有する必要がなくなる。逆にモノを所有するコストが高くつく場合がある。

上の世代が「所有」に躍起になったモノを若者が消費しない「若者の(モノ)離れ」も、供給能力の向上を遮二無二目指した成長が必然的に行きつく果てなのかも。
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2010年10月16日

破壊的である理由

『イノベーションのジレンマ』は破壊的技術の前に伝統企業が敗れ去る現象を解説したものだが、単に新しい技術が「破壊的技術」というわけではない。


破壊的技術は何故「破壊的」なのか?

それは既存のビジネスモデルを「破壊」するからだ



生まれたばかりの破壊的技術は、その特徴は既存のビジネスモデルが対象とする市場では積極的に評価されない一方で、その性能は市場の要求を満たしていないことが多い。そのため、既存のビジネスモデルを取る伝統企業では破壊的技術は採用されない。

破壊的技術が生き残るには新しいビジネスモデルが必要になる。新しいビジネスモデルは新しい市場を対象とし、その規模は当初は小さなものでしかない。既に大きな市場を持つ伝統企業はこの市場を無視し、一方で新興企業やスピンアウト組織が目をつける。

新興企業やスピンアウト組織は小さな市場でも採算が取れる新しいビジネスモデルを身につける。新しいビジネスモデルという「パトロン」を得た破壊的技術は順調に進化を続け、やがて既存のビジネスモデルが対象とした市場が要求する性能を獲得し、その市場に進出する。

この時、既存のビジネスモデルと新しいビジネスモデルの衝突が起き、元々小さい市場で採算が取れるようにできていた新しいビジネスモデルに軍配があがる。こうして既存のビジネスモデルは破壊的技術によって「破壊」されるのである。

既存のビジネスモデルに則って最適化されていた伝統企業は、新しいビジネスモデルへの対応を迫られる。それには新しいビジネスモデルに合わせて組織を再構築しなければならないが、それが非常に難しいことは前回のエントリで取り上げた通り。

新しいビジネスモデルに乗り換えて組織を再構築するか、既存のビジネスモデルにすがって衰退していくか―――いずれにせよ、この状況に陥った伝統企業は破壊的技術の前に「破壊」されてしまうのである。これが破壊的イノベーションの本質と言える。

そしてビジネスモデルを変える必要のない技術は「破壊的技術」ではないとも言える。技術が「破壊的」か否かはビジネスモデルに依存し、ある企業には「破壊的」でも別の企業には「破壊的」でないこともある。よって全ての革新的技術が伝統企業を「壊す」とは限らない。


参考:
イノベーションの本質(当ブログ記事)
日本企業のイノベーション(当ブログ記事)
新しい酒は新しい革袋に(当ブログ記事)
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2010年10月05日

新しい酒は新しい革袋に

ビジネスモデルは“後付け”に過ぎない
大事なのは、設計図よりも、完成度(日経ビジネスオンライン)


自動車業界におけるトヨタ生産方式。PC業界におけるデルモデル。いずれも多くの書物・文献で紹介され、同業他社がそれを真似ることも多い。しかし本家以外でその導入に成功した事例を聞かないのは何故か?

(記事より)
 ビジネスモデルを真似るのは簡単だ。デルと同様の直接販売や受注生産方式に踏み切ることは、その気になれば誰でもできる。部品在庫の管理と所有をサプライヤーに移管する「VMI(Vendor Managed Inventory=ベンダー・マネージド・インベントリー)」も大手メーカーであればゴリ押しが効く。

 ところが、それまで直販以外の販売方法を取ってきたメーカーが、デルモデルの要素技術を導入して直販を始めると、途端にコンフリクトを起こしてしまう。

 サプライチェーンのすべてのプロセスが歩調を合わせることで、初めてデルモデルは機能する。バッファーとしての在庫が不要になる。

 そのためには情報を共有するだけでなく、各プロセスの活動ルールや人事評価基準まで、すべてを矛盾なく統合する必要がある。

<略>

 そうした細部の作り込みがデルと他のライバルとの明暗を分けた。つまり競争力の源泉はビジネスモデルそのものではなく、その完成度にある。


この記事は「イノベーションのジレンマ」で伝統企業が新興企業のビジネスモデルに適応できない様子を説明する。

破壊的イノベーションは新しいビジネスモデルと不可分であり、伝統企業が導入してきたビジネスモデルとは相容れない。よって伝統企業が新しいビジネスモデルを導入しようとすると、組織の様々な場所で摩擦(コンフリクト)を引き起こす。

こうなった場合、伝統企業の上層部は考える。組織に様々な摩擦を引き起こす新しいビジネスモデルは十分なリターンを保証できるのか?―――既存のビジネスモデルが多くのリターンを保証しているならば、新しいビジネスモデルは採用されないだろう。

この点で、既存の組織のない新興企業は伝統企業に比べて有利である。何故なら新しいビジネスモデルに合わせて組織を作り上げられるからだ。新しい用途のために既存のものを改修するより、新規に作り直した方が簡単だということと同じである。

「イノベーションのジレンマ」で「破壊的イノベーションを成功するには伝統企業からスピンアウトすることが不可欠」という理由もここにある。


参考:
イノベーションの本質(当ブログ記事)
日本企業のイノベーション(当ブログ記事)
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2010年08月02日

イノベーションが全てではない

日本商品がやたらとオーバースペックである理由(Business Media 誠・ちきりんの“社会派”で行こう!)

日本の商品がオーバースペックに走りがちなことを、クリステンセンの「イノベーションのジレンマ」を使って説明するコラムなのだが、ミスリードを招きやすい書き方なので指摘。

(記事より)
 でも、その後もこの企業が商品Aしか持っていないと、クリーム色の“オーバースペックゾーン”に入り込んでしまいます。求められている以上に品質を向上したり(=その商品を50年使う人はほとんどいないのに、50年壊れない部品を使うなど)、おせっかいな機能を装備したり、といった具合です。これが赤の点線部分です。

 しかし、もしこの企業が“イノベーション”を起こして、商品Bの開発に成功すれば、企業はよりもうかる新商品Bに事業をシフトしていきます。これが緑の曲線部分で、イノベーションによるジャンプです。

 その後、商品Bもまた“十分なスペック”に到達するまで改善が進み(=青の実線)、それが一定のレベルに達したころには、またイノベーションにより次の商品に移る。このようにイノベーションが一定期間ごとに起これば、その企業や産業の商品はオーバースペックにはなりません。

 一方、イノベーションが起こせない企業は、いつまでも既存商品や既存技術にしがみつくことになります。毎年毎年、細かい改善がなされ、でも消費者はそんな細かい改善に価値を見いださないので対価を払いたがらず、結果として価格競争に陥ってしまう。


こういう書き方をすると、企業におけるイノベーションの有無が全てを決するように見えるが、「イノベーションのジレンマ」の本質はそこにはない。


イノベーションを自ら生み出しておきながら

合理的判断の元にイノベーションを放棄してしまうのが

「イノベーションのジレンマ」の本質である



クリステンセンの書には、新しいイノベーションに敗れ去る既存企業こそが、実はそのイノベーションの萌芽を生み出していたケースが例示されている。彼らはイノベーションを生み出していなかったわけではない。

では何故彼らは折角生み出したイノベーションを放棄したのか?それは彼らが頑迷だったからではなく、それどころか合理的な選択したからだった、というのがクリステンセンの言わんとしていることである。


(記事より)
 一方、株主の利益要求圧力が高い米国では、オーバースペックゾーンでの競争を延々と続けることは不可能です。そんなことをしていては十分な利益が得られないので、経営者はすえ変えられ、余分な技術者はリストラされてしまいます。挙げ句の果ては企業自体が身売りされたり、消滅させられます。


このコラムでの「オーバースペックゾーン」を「イノベーションの生まれていない市場」と理解すると、株主の利益要求圧力が高いからこそオーバースペックゾーンに留まらなければならない。何故か?


イノベーションが生み出した市場は未だに小さく

オーバースペックゾーンこそボリュームゾーンだからだ



オーバースペックにしのぎを削る市場は巨大であり、確固とした顧客数が見込める。一方新しいイノベーションが対象にする市場は確固とした顧客数が見込めないどころか、市場自体が存在するかも怪しい。

あなたが経営者ならば、有限の経営資源をどちらの市場に振り向ければ利益が最大になると考えるだろう?巨大かつ確固とした顧客数を見込めるオーバースペックゾーンを選ぶはずだ。

一方で新しいイノベーションが対象とする、存在するかどうかもわからない市場への経営資源投入は冒険だ。株主の利益要求圧力が高ければ尚のこと、不確かな市場への経営資源投入は忌避されるだろう。

かくして「最大市場に向けて経営資源を最大限投入し、利益を最大化する」という合理的な選択が為された結果、イノベーションを放棄して自らの衰退を決定づけてしまうのである。


イノベーションを引き起こせないのではなく

イノベーションを引き受ける決断ができないこと

その主要因の一つが株主の利益要求圧力であることが

イノベーションのジレンマの本質である



参考:
イノベーションの本質(当ブログ記事)
日本企業のイノベーション(当ブログ記事)
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2010年05月07日

ターゲット・マーケティング

小売不況の実態(MPJ)

マーケティングの一手法「ターゲット・マーケティング」についての解説。

(エントリより)
 小売業が成功するパターンはいくつかある。当然、地域特性があるのだから、一概にこれとはいえないが、欲しいものを買うということが顧客の基本にある以上、「お客が求めるもの」「良いもの」を「安く」提供すれば小売不況は起こらない。逆に言えば「欲しいものがない」「欲しいものがあっても手が出ない」から、モノが売れないといえよう。

 では、「欲しいもの」とは何か。こうなると議論が分かれてくる。細かく言えば、「十人十色」であるから、基本的には、画一化することはできない。しかし、ある程度パターン化しなければ、売る側は品ぞろえができなくなってしまう。

 ということで、小売店が良く行っているのが、「マーケティング」というものになる。要するに、地域や顧客の特性から、または競合店の調査から「その店でほしいもの」は何かを調査することだ。

 これに対し、顧客を限定することによって、その内容をより一層絞り込むこともできる。これが「ターゲット・マーケティング」である。そんなに難しいことではない。洋服屋で「紳士服」「婦人服」と分けるのは、立派な絞り込みだ。このほかにも「年齢層」「未既婚」「子供の有無」「年収」「生活様式」など様々な要素で絞り込むことが可能である。


ポイントは、ターゲットを絞り込むか、絞り込まないか。「絞り込む小売」の最先端はPOSデータを駆使するコンビニで、「絞り込まない小売」はネット販売が台頭しつつあり、絞り込みが中途半端な小売りが退潮傾向にある、ということらしい。
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2010年03月14日

複製の対価・その1

“無料より高いものはない”,のか?
フリービジネスが示す「真のIT産業」とは(日経Tech-On!)


(記事より)
 ITが取り扱うのは、文字通り「情報(Information)」である。情報はデジタル化することで、複製(コピー)が容易になる。コピーを何度してもほとんど原価は増えない。情報をソフトウエアやデータと読み替えてもいい。この扱う商材が「コピーしても原価が発生しない」という特徴がITビジネスの本質の一つである。

<略>

 コピーしても原価が発生しない商材を扱うという点がITビジネスの本質と書いたが、本質はもう一つある。機械の知恵を使える点だ。コンピューター(ソフトウエア)が自動で売り上げを稼いでくれる仕組みを構築できるのである。

<略>

 「複製に原価がかからない」「コンピューターが自動で売り上げを稼ぐ」というITビジネスの本質が、フリービジネスを新しいステージに高めた。このことを企業やユーザーが直感的に感じているから、冒頭で紹介した書籍『フリー』に多くの人々が興味を持つのだろう。


「複製に原価がかからない」という指摘にかなり衝撃を受けた記事である。これについて何回かに渡って論考する。

思うに、商売にはいくつかのステージがあり、商品企画を考える段階から、商品を製造して販売する段階まである。これを「複製」という視点で分けると以下のようになる:

複製前の仕事(0から1にする段階)
・研究開発
・企画立案
・商品開発

複製後の仕事(1からNにする段階)
・商品製造
・商品流通
・商品販売


研究・企画・開発は何もないところから1つの商品(正確にはその雛型)を創り出す段階であり、製造・流通・販売は雛型から商品を「複製」し、「複製」された商品を売り捌く段階といえる。

「複製」とは「同じものを大量に作ること」といえるが、それが実は非常に高度な作業だということは、何か同じものを大量に作る経験をした人には実感できることだろう。

実際、製造業では商品の複製を作るために工場を建て、作業員を雇い、品質を保つために教育もしなければならない。そして複製された商品を流通させ、販売するにも相応の経費がかかる。

即ち「複製」とは本来「お金のかかる仕事」であり、商品の値段は研究・企画・開発という「複製前の仕事」の値段と、製造・流通・販売という「複製後の仕事」の値段で構成される。

商品の値段=複製前の仕事の値段+複製後の仕事の値段


ところが「複製にお金がかからない商品」が現れた。上記の記事で取り上げられたITや情報、ソフトウェアなどはその例である。このような商品の値段の構成に興味深いことが起きる。

複製にお金がかからないのだから「複製後の仕事の値段」は究極的には0になる。しかし買い手がそのことに気がつかなければ、売り手はその分を吹っかけて売ることができる。

ところがある時点で買い手がそのことに気がつくと、売り手には値下げ圧力がかかり、最終的には「複製後の仕事の値段」=0の値段で売らざるを得なくなる。

この時の商品の値段は「複製前の仕事の値段」に一致する。つまり商品の買い手は、商品の研究・企画・開発に対してお金を払っている、ということになる。

一方で「複製後の仕事の値段」まで含めた値段でビジネスモデルを立てていた売り手は、その値段ではやっていけなくなるので、ビジネスモデルの再構築を余儀なくされるのである。
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2010年01月05日

イノベーションと経営

科学技術は経済成長をもたらすか(日経BizPlus・経済学で考える)

民主党政権の事業仕分けに「仕分け人」として参加していた原田泰氏のコラム。科学技術予算が仕分け対象になったことに関連して、科学技術と経済成長について考察する。

(記事より)
 研究支出が経済成長に結びつく経路は、児玉文雄氏の著書(『ハイテク技術のパラダイム:マクロ技術学の体系』中央公論社、91年)にならって、以下のようなものだと考える。研究によって新しい製品が生まれる。企業はこの新しい製品のために設備投資を行い、新しい製品を市場に送り出す。その結果、企業は利益が得られ、経済全体は成長する。ところが図に見るように、80年代では研究支出と設備投資、GDPはほぼ同じように動いてきたが、90年代末以降はそうではない。80年代末からは90年代初めでは研究支出が減っていても設備投資もGDPも伸びていたが、それ以降、研究支出が増大しているにもかかわらず、設備投資もGDPも伸びなくなっている。しかも、90年代、特に伸びているのは採算性を期待される研究費である。研究費を伸ばしても成長には結びついていないのである。もちろん、研究から商品化まで時間がかかるから、研究支出と設備投資、GDPにタイムラグ(時間差)を置くべきだとの反論があるだろう。確かにその通りだ。しかし、5年のラグを置いても、80年代末は研究支出を減らしながらも高い成長を示し、90年代には研究費を伸ばしても高い成長ができなかったという関係は変わらない。


「経済合理性」でイノベーションを殺すな(JBpress)

事業仕分けのやり玉に挙がっている科学技術プロジェクトをイノベーション活動と考え、イノベーション活動に対する経済合理性の適用の危険を説く。

(記事より)
 革新的アイデアの実現に腐心するだけでは、イノベーションは実現しない。イノベーションが抱える原理的な不確実性を前提にするなら、イノベーション活動の担い手には、資源動員への壁を乗り越えるための努力と工夫を重ねることが常に求められる。

 一方、イノベーション活動の管理者(組織のトップや経営者など)は、単に技術革新活動を支援するだけでなく、技術者や研究者たちに、創造的正当化プロセスを意識するよう促すことが必要となる。つまり、イノベーションの持つ意味や価値、社会的影響力などを発見、もしくは学習するよう仕向けていくのである。学会活動、顧客訪問、社内での人事ローテーションも、そういった観点から見直すことが大事だと思われる。

 また管理者は、イノベーション活動への資源配分を決める際に、イノベーション活動の初期段階に過小投資になる傾向の危険性を認識すべきだ。

 初期段階は不確実性が高いので、管理者は(責任回避のためにも)技術者たちに精緻な採算計画を求めるかもしれない。だが、それは多くの場合「ないものねだり」なのだ。結果として、将来的に有望なイノベーションの機会を逸してしまうかもしれない。

 こうした初期段階の過小投資を避けるために、管理者は常に、客観的な経済合理性を過度に適用するのが問題だということを意識する必要がある。投資判断する側も、結局は自らの主観に頼るしかない。


参考:
永続企業は「守・破・離」の道を究める
「失われた20年」と「古き良き日本型経営」「悪い米国型経営」(日経ビジネスオンライン)
posted by かせっち at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月22日

討って出た結果

2つのリーバイスから見るブランド戦略の要(日経BP)

ジーンズメーカーのリーバイスがウォルマート向けに立ち上げた低価格ブランド「リーバイ・ストラウス・シグネチャー」。低価格商品で売り上げ増を狙ったが、その目論見どおりには行かなかった。

(記事より)
 結局、リーバイ・ストラウス社はシグネチャーブランドの拡大は得策ではないと判断したように思われる。

 実際、2005年をピークに、年々シグネチャーの売上比率は下がり、最新の年次報告書では全社売上の6%にまで縮小した。僕も毎年のようにウォルマートの店舗の様子はウォッチしているが、2008年はジーンズ売り場のほんの隅の方でしかシグネチャーを見つけることができなくなっていた。

 そしてリーバイ・ストラウス社の業績はどうなったのか。2005年に41億だった売上高は、2007年には44億ドルに増大した。利益額で見ればさらに回復は大きい。2005年から2007年で3倍に回復し、純利益は4.6億ドルという好業績をたたき出した。

 つまり、下流マーケットの拡大で売上高が減少し始めたからといって、高付加価値ブランドメーカーが、下流マーケットに出ていくのは得策ではなかったというのが、僕なりの学びである。

 デフュージョンブランドで下のマーケットに打って出るよりも、縮小しつつあるとはいえ、これまでのコアカスタマーへの付加価値を磨いた方が、企業の価値は維持しやすいものなのだ。


これは「イノベーションのジレンマ」でいうところの「ローエンド破壊」が起きている状態で、リーバイスの対応は伝統企業がローエンド市場に慌てて対応して失敗するパターンにあたる。

結局のところ伝統企業は参入を諦めて既存市場に回帰・専念するのだが、いつまでも新市場を忌避し続けていると負け企業のパターンに陥ってしまうので、痛し痒しというところか。
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2009年03月03日

意味の洞察

「技術の日立」が後れをとるワケ(日経Tech-On!)

組み込み機器用CPUで大きなシェアを握るARMと、同時期にARMより高性能なCPUとして開発されながら、ARMの後塵を拝する日立(現在はルネサステクノロジー)のSuper H。両者の差を分けたものは?

(記事より)
 明らかに市場を支配する力があったにもかかわらず、なぜ日立はARM社の後手にまわったのか。

 これについて、慶応大学の榊原清則は、その著書「イノベーションの収益化」2)にもとづいて、興味深い考察をしている。彼は、「新技術」に対して、それがイノベーションにまで成就するには、その後の「意味の洞察」そして「収益化」というプロセスが働かなければならないと説く。そして「新技術」→「意味の洞察」→「収益化」というイノベーション・サイクルが回ってはじめて、新たな「新技術」の開発のフェーズが開かれるという。ここで忘れがちなのは、「意味の洞察」のフェーズである。日立のSHシリーズの32ビットRISCチップは、この「意味の洞察」を怠った。SH1はARM6とほぼ同時期に開発されたにもかかわらずARM6より高速かつ高機能だった。逆にそれがあだになった。速度と機能の面で性能が優れていたので幅広い可能性を生んでしまい、かえって「低消費電力がビジネスの鍵になる」ことを洞察できなかった。そう榊原は論ずる3)。けだし慧眼である。

 では、日立はどうしていたらデファクト・スタンダードを取れていたか。自社で携帯電話機を作り始めていたから、携帯電話にとってのプライオリティが低消費電力にあることは、洞察できたはずである。そして携帯電話というたいへん大きな潮流がやってきて1つの大きな産業となることもまた洞察できたはずだ。この2つの洞察が結局のところすばやい意思決定につながらなかったということは、本稿のテーマである「技術の目利き」ができなかったということになる。この問題について、後にふたたび取り上げたい。


これは「イノベーションのジレンマ」で伝統企業が破壊的イノベーションを掴み損ねるプロセスを端的に示している。

「イノベーションのジレンマ」で幾つか例があるように、破壊的技術自体は伝統企業でも生み出されている。ところが伝統企業ではその技術が評価されないため、技術を作った人間にスピンアウトされるか、他社に先んじられてしまうのだ。

ではなぜ伝統企業で破壊的技術が評価されないか?それは伝統企業が従来のビジネスの延長で破壊的技術を評価してしまうから。記事で言う「意味の洞察」を従来の価値観で行ってしまうため、破壊的技術の持つ「意味」を見逃してしまうのだ。


日立は「意味の洞察」を怠ったのではない

「洞察の方向性」を誤ったのだ



参考:
日本企業のイノベーション(当ブログ記事)
イノベーションの本質(当ブログ記事)
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2009年02月21日

人員整理に潜む罠

見当違いの人員整理をしていませんか?(日経BP)

(記事より)
 John Sullivan博士には人材プランナーというスマートな肩書があるが、平たく言えば人員整理スペシャリストだ。同博士は、ほとんどすべての人員整理と他の代替手段は、やり方が間違っていると言う。

 これは大問題だ。何しろ現在、いたるところで人員整理が進行中だ。米労働省の発表によれば、米国内では1月だけで60万人近くが失業した。人員整理を避けようとして、減給、新規採用の凍結、一時帰休などを実施する企業もあるが、たいていの場合、やり方のまずさでは同様だ。


会社が経営危機に陥ると、人件費削減のために人員整理に手をつける。会社としては「会社にとって不要な人材」を切りたいはずだが、現在行われている人員整理の手法のほとんどは「会社にとって必要な人材」の流出を招いてしまう、というお話。

posted by かせっち at 20:04| Comment(2) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月11日

国が与える毒饅頭

自治なき自治体の得たもの - 書評 - 自治体クライシス(404 Blog Not Found)

赤字第三セクターに苦しむ自治体を取り上げた『自治体クライシス』の書評。

(エントリより)
本書に登場するのは、まさに「顧客が本当に必要だったもの」の世界。

左が「自治体が本当に必要だったもの」だとしたら、中央が「第三セクターが建ててしまった」、そして右が「今それがどうなっているのか」だ。客も来ない施設が、廃墟となり、しかし借金だけが残っている。

何でそんなことになってしまったのか。

国がリゾート法で後押ししたから?自治体がそれに乗ってしまったから?金融機関が損失補填契約に安心して貸し込んだから?いずれも正解であるし、いずれも本書で詳しく解説されているが、根本的な原因は、自分たちに本当に必要だったものを、自分たちで用意するどころか自分たちで考えるのも放棄した、自治の不在、というより自治体が自治体であることの自己否定にあったのではないか。

その結果、本当に必要だったものにまわす金がなくなってしまったのが、本書に登場する自治体が現在直面している危機である。これらの第三セクターの顛末は、リフレ政策に私が賛成するのをためらう一番の理由でもある。いくら供給を増やしても、それに応じた需要がなければ、後に残るのは廃墟と負債しかないのではないか。


同エントリで同書の比較のために取り上げた下條村では、民間出身の村長が知恵を絞り、役所も知恵を絞ることを要求し、また村民自らも知恵を絞ることを望んでいる。

また村の事業の原資を当初国の補助金に頼ったが、利用条件が厳しくて使い勝手が悪いうえ、事業目標と対立する面があったため、村の自主財源に切り替えたという。

日本の未来が見える村(日経ビジネスオンライン)

※公開翌日以降の閲覧にはユーザー登録(無料)が必要です。

(記事より)
 さらに、村営住宅の一件は国の補助金の存在意義を問い直した。第1号マンションが示した通り、国の補助金は事細かに条件を定めるため、市町村にとってはひどく使い勝手が悪いものになっている。この使い勝手の悪さが、補助金の政策効果を著しく弱めている。伊藤村長も指摘する。

 「がんじがらめの補助金は不要。『少子化対策』のように、大まかな使途だけ決めて、あとは市町村に任せてほしい」。下條村は村営住宅を自主財源で建てることができたが、政策実行のために補助金を必要としている自治体は数多い。国の基準に合わせたために、市町村が狙った本来の効果と乖離してしまうのでは本末転倒だ。


国の補助金は地方自治体を幸せにしない毒饅頭か?
posted by かせっち at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月06日

日本企業のイノベーション

イノベーションと日本企業 (あかさたなの執行実験場)

(エントリより)
http://blogs.yahoo.co.jp/takaakimitsuhashi/23977967.html
イノベーションのジレンマ:優れた特色を持つ商品を売る巨大企業が、その特色を改良する事のみに目を奪われ、顧客の別の需要に目が届かず、その商品より劣るが新たな特色を持つ商品を売り出し始めた新興企業の前に力を失う理由を説明したマーケティングの理論(Wikipediaより)

第一段階:優良企業は顧客ニーズを捉え、ビジネスを拡大する。ビジネスが拡大し、企業規模が大きくなった結果、イノベーションは「持続的」に事業を継続できるものに集中する。
第二段階:持続的なイノベーションは、ある時点で顧客ニーズを離れてしまい、ユーザは全く別の面に目を向けはじめる。結果、破壊的イノベーションを提供する新興企業などが力をつける。
第三段階:新興企業の破壊的イノベーションの価値が市場で認められた結果、持続的イノベーションを続けていた優良企業の付加価値は毀損され、やがて退出することになる。


というわけで、「新興企業がなかなか日本には出てこない!だから日本はダメなんだ」と良く言われていますけど、しばしば「破壊的イノベーション」を日本の伝統企業を生み出すことがあってそれこそが、日本の強みだと私は思います。


「イノベーションのジレンマ」とは「業界の伝統企業が合理的判断故に破壊的イノベーションを獲得し損ね、破壊的イノベーションを獲得した新興企業に敗れ去る現象」と説明できるが、「伝統企業が新興企業に敗れる」という面が強調され過ぎる嫌いがある。

実際クリステンセンの著作に出てくるケーススタディはほとんどそのパターンであるし、このことを以って新興企業が次々と生まれない日本は、イノベーションのダイナミズムに乏しいと批判される(クリステンセン自身も著作で述べている)。

しかし「イノベーションのジレンマ」の本質は、(クリステンセンは気が付いていないかも知れないが)新興企業を前提にしてないと自分は考える。

イノベーションの本質(当ブログ記事)

(エントリより)
破壊的イノベーションは探して見つかるようなものではない

継続して育て上げて破壊的イノベーションにするのである

既存の価値観から破壊的技術を捨てた企業が負け

新たな価値観から破壊的技術を育てた企業が勝つ

これが「イノベーションのジレンマ」の示唆するところ


つまり「新たな価値観から破壊的技術を育てる」ことができれば、伝統企業でも破壊的イノベーションを獲得できるのである。そしてそれは寧ろ日本の伝統企業こそが破壊的イノベーションを起こせることを意味する。

「イノベーションのジレンマ」のケーススタディではアメリカ企業が多く取り上げられているが、自分が思うにアメリカ企業の行動様式は自然淘汰説に基づいている。つまり現在の環境に最適になるように組織が作られ、不適格なものは排除される。

この自然淘汰の原理こそが伝統企業で破壊的イノベーションを獲得し損ねる理由でもある。破壊的イノベーションは伝統企業の価値観では利益をもたらさないので、自然淘汰の原理に基づいた合理的判断のもと排除されるのである。

つまり、自然淘汰の行動原理で動くアメリカ企業をケーススタディにしている限り、伝統企業に破壊的イノベーションは起こりえず、新興企業もいつしか伝統企業となると新たな破壊的イノベーションを獲得し損ねる、というシナリオしか描けなくなる。

一方で日本の企業には、現在は利益を上げない事業でも致命的に損害を与えないのであれば継続させることがある。破壊的技術が破壊的イノベーションになるには継続的な育成が必要で、日本の伝統企業はその「保育器」の役割を果たしている。

このことは言うなれば、日本企業が「環境に益にも害にもならない突然変異はそのまま保持される」という中立進化説に基づいて行動していると言える。

中立進化説(当ブログ記事)

(エントリより)
自然淘汰説と中立進化説の対比でわかることは

現在の環境への過剰な適応は危険だということ

無駄に思える要素でも保持する余裕を持つことは

将来に対する可能性を広げるということ


日本の伝統企業であっても中立進化説で行動する限り

破壊的イノベーションを生み出すことは可能である



昨今の不況下で日本企業の巨額な内部留保が槍玉に挙げられているが、それは将来への投資の原資という意味合いもある。それを取り崩すことは、せっかく育てた破壊的技術を「保育器」から放り出す危険も孕んでいる。


参考:
イノベーションの本質(当ブログ記事)
中立進化説(当ブログ記事)
posted by かせっち at 22:55| Comment(2) | TrackBack(4) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月01日

サービスの不在

消費者は何のために「もの」を買うか?

それはその「もの」を所有するためではなく、「もの」を買って得られる「便益」のためと言える。消費者にとってその「便益」が必要ならならば「もの」の値段が高くても買うし、逆に「もの」が安くても「便益」に魅力がなければ買うことはない。

つまり「もの」そのものより「ものから得られる便益」、言い換えれば「サービス」が消費者に「もの」を購入させる動機であり、「ものが提供するサービス」を消費者に対して上手にプレゼンできない「もの」は販売に成功しないものである。

例えば若者の自動車離れの原因の一つに「若者の購買力低下」が言われている。しかし車が若者にとって本当に必要ならば、彼らは例え懐が寂しくても買うだろう。そうでないということは、他の物品よりも優先順位が下がっていることを意味する。

つまり自動車メーカーが打ち出している「車によって得られるサービス」というものが、今の若者にはもう魅力的には映らなくなってきているのではないだろうか。


そして同じことは、地方自治体の観光行政にも言える。

観光地としての立地条件。(よねの備忘録)

(エントリより)
「ゆうばり」市は、アクセスの悪い山奥に無茶な観光立地をやって
潰れたかのように報道されています。

だけど、立地条件は、実は凄くよいとこなんです。

1.札幌と高速道路で直結している。

<略>

2.新・千歳空港にもっとも近いスキー場。

<略>

3.ブランド=メロンの存在

<略>


かつて9月の頃に観光で夕張を訪れたことがある。

夕張メロンの収穫も終わり、映画祭も行われておらず、スキーシーズンでもなかったこの時期は、訪れるには一番タイミングが悪かったとは言える。それを差し引いたとしても、夕張の街の閑散ぶりには「観光地としてどうなの?」と思わざるを得なかった。

よね氏の指摘するように、夕張は立地条件はそれほど悪くないし、他所にはないキラーコンテンツとなり得る観光資源も幾つかある。問題はそれを魅力的な「サービス」に結び付けて外に打ち出す能力に欠けていたように思う。


「もの」そのものを提供することが「サービス」ではない

「サービス」を提供するための手段として「もの」が存在する



これは消費者向けの製品を作るメーカーに勤める自分の自戒の言葉でもある。

厳しいことを書いたが、夕張の捲土重来に期待する。
posted by かせっち at 20:32| Comment(2) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

2番目の上流部にいる国

日本と米国の未来(中韓を知りすぎた男)

ブログ主が考える日米両国の生きる道。それは、高価格ながら高付加価値の技術力を持った日本と、危機を招いたとはいえ依然世界の金融センターの地位は揺るがないアメリカが組むこと。

(エントリより)
オバマは300万人の失業者を救済すると約束しました。失業者救済は
富を生まない公的事業では、財政赤字が増えるだけです。

製造業を復活させないと失業者救済は絶対無理です。かといって中国に
移転した雑貨類の工場を国内に戻すことは不可能です。労働工賃が
20倍になってしまいます。

アメリカの雇用を促進するには、日本メーカーに来てもらう以外 手は
ありません。すでにアメリカに進出した日本企業はアメリカの雇用の
13%も貢献しています。

このことにオバマ政権の閣僚たちが気がつけば、「中国重視」なんて
バカなことは言っておられません。

これからの世界はアメリカの金融センターと世界最大のアメリカの
軍事力と日本の製造業が組むことが世界の平和と発展につながって
いきます。


面白いと思ったのは、日本メーカーをアメリカに誘致するということ。同じような主張が日経系のコラムで為されている。

日本の製造業にモラルハザードは起きるのか(日経SAFTY JAPAN)

(エントリより)
 最近、自動車部品関連の方に聞いた話だが、日本の自動車メーカーの次の恐怖は、この不況で世界の部品メーカーが倒産することだそうだ。

 GMとフォードでは、共通の部品メーカーが70%から80%に及ぶという。したがってGMの破綻で、部品メーカーが倒産することでフォードは自社の車を作れないということなのだが、これはGMとフォードだけの問題ではなさそうだ。日本の自動車メーカーも共通の部品メーカーから供給を受けているので、その生産に影響を及ぼしかねない。

 そこで次に求められる対応としては、部品メーカーの救済ということになる。今のGM、フォード、クライスラーは、自社の再建でそれどころではないだろう。となるとまだ体力のある日本メーカーがそれらの部品メーカーの救済を率先して行う。子会社化したとしたらどうなるだろう。GM、フォード、クライスラーは、トヨタ、ホンダの子会社から部品を買わざるを得なくなる。つまり、日本メーカーは部品供給によって、世界シェアをつかむチャンスになるかもしれない、時計でいうシチズンだ。トヨタ、ホンダの部品を積んだフォード・マスタング‥‥近い将来そうなっているかもしれない。


日本人は「日本は資源のない国」と刷り込まれている。確かにそれは正しいが、その資源から作られる部品・素材の領域は高機能・高付加価値において日本の独壇場になっている。つまりこれは産業において「2番目の上流部」にあることを意味する。

ということは、産業の上流部を押さえている日本は(「1番目の上流部」にある資源国ほどではないにせよ)、産業をコントロールできる立場にあるのだが、そのことに気付いていないのか、その力を使って世界で上手く立ち回れていないようである。

「内圧」をどう使う(日経Tech-On!)

(記事より)
 これまで,こうしたIntel的な部品メーカー主導のプラットフォーム戦略は垂直統合型の企業が多い日本メーカーには採用しにくいと言われてきた。完成品部門の比重が高く,完成品の付加価値を下げる傾向のある部品を中核としたプラットフォーム戦略はとりにくいのである。中核部品を外販して水平分業化が進んで完成品の競争力を下げる現象は,「統合型企業のジレンマ」とも呼ばれ,日本製造業の悩みの種だった。

 その意味で,垂直統合構造を持つ企業が,製品や部品含めてシステム全体を標準化できるという強みを生かして,プラットフォームの内部にインフラ事業などの差異化部分を組み込むという欧州GSMをめぐる戦略には,同じ垂直統合の構造を持つ日本企業が学ぶところは多いに違いない。
posted by かせっち at 21:56| Comment(0) | TrackBack(1) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

内部留保は「埋蔵金」か

※2009/1/13初出
※2009/1/19追記

大企業による派遣社員の雇い止めに対し、「大企業は巨額の内部留保を蓄えているのだから、それを原資に派遣社員を雇用すべきだ」という意見が出ている。

なるほど、一理ある、と思いつつ、「そもそも『内部留保』って何?」と思ってWikipediaで調べて見た。

Wikipedia「内部留保」より)
内部留保(ないぶりゅうほ)とは、株式会社等の営利法人が企業活動によって得た利益を出資者に配当し、その剰余金を蓄積した資金(現金・預金等)を指す。その企業の自由になる資金であるため「余裕資金」と呼ばれる事もある。


ふむふむ、企業の余裕資金なら「それを雇用の原資にしろ」って話も出てくるわな…と、思っていたら続きが。

Wikipedia「内部留保」より)
内部留保に関する誤解

「内部留保=現金」ではない。 例えば、ある企業で一期間中において以下の取引があったと仮定しよう。

 @. 1億円の商品を仕入れた。
 A. 2億円でその商品を売って、2億円の現金を得た。
 B. 1億円で建物を購入した。

この場合、利益は1億円であって、0円ではない。なぜならば、

 まず、@の取引により企業は1億円の費用が掛かった。
 次に、Aの取引により企業は2億円の収益を得た。

ここまでの取引(2億円-1億円)の結果、企業はその差分1億円を利益として得た。

 そして、Bの取引で、企業は1億円で建物を購入している。

しかし、この「建物の購入」は損失ではない[1]為、費用として計上されない。つまり、利益額1億円は減らないのである。これは、損益計算と現金計算が別物であることを示す。


つまり、現実には設備投資に現金を支払っているが、損益計算上は損失とは見なされない(正確には減価償却費という損失になるが、実際に払った現金よりは少額になる)ので、その分利益があるように「見える」というわけ。

そして見かけだろうが真水だろうが、利益の累積が内部留保だから、損益計算上の内部留保が如何に巨額でも、現実の現金は設備投資の支払いで目減りしている可能性もある。

振り返ってみると、景気の見通しがまだ楽観的だった昨年夏までは大企業は積極投資をしていたように思うので、現金は既に設備投資に回ってしまった可能性が高い。

だから各企業のキャッシュフローを見ないと正確には言えず、少なくとも「内部留保がたくさんあるなら、それを雇用の原資にしろ!」というのは乱暴な議論、ということのようだ。


こういうこともちゃんと説明しようね>メディアの皆様


※2009/1/19追記

より詳しい解説。

派遣を救う為に、○○を使えという妄言(あかさたなの執行実験場)

(エントリより)
んで、派遣切りとセットで内部留保を取り崩せという人がいますけど、そういう人には下のエントリーをお見せしましょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/kurukku2004/diary/200901090000/
内部留保で派遣社員は救えません


もっとも、たぶんこの記事を見せたところで、左の人々は、

役員が義侠心に駆られて「内部留保を取り崩して、派遣社員の雇用を確保します」と言ったら、それは美談かもしれませんけど、法的には会社の持ち主である株主への背任に他なりません。株主が損賠賠償を求めて訴訟を起こしたら、確実に企業が敗北します。企業は出資者である株主に利益をもたらす義務があるからです。


という下り以外は見なかったことにして「資本の横暴!強欲な株主は人民の敵」とファビョるのかも知れません。
posted by かせっち at 21:53| Comment(7) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月14日

車なんか要らない?

News - 車買えない?それとも買いたくない?(404 Blog Not Found)

若者の車離れの考察。

(エントリより)
で、出てきた結論は、都会と田舎では、車が売れなくなった構造が異なるというもの。

まず田舎の場合。これは確かに「買えないから仕方なく買わずに済ませるか、買っても安上がりにする」というのが事実のようだ。

<略>

確かに田舎ではクルマがないと笑っちゃうほど何も出来ない。ニートもワーキングプアも車は必需品。しかし車は走ってくれさえすればいい。そんな構図が統計から見えてくる。

しかし、これは全国統計を見た場合。都会における構図はかなり異なる。都会の方がかえって軽自動車が少ないというのは、クルマに乗っている人なら誰でも体感していると思うけど、なぜそうなっているかといえば、都会ではクルマがなくてもなんとでもなるから。必需品ではないのだ。よって「これだけの生活を維持できてますよ」という、メッセージとしての役割がより重視される。「ベンツを買って丸ビルに行け!」というわけだ。

しかし、この「クルマに託されたメッセージ」の効用が、急速に失われつつあるように感じるのだ。むしろ「クルマを欲しがるのは小学生までだよねー」という、逆のメッセージすら感じられる。それを特に感じるのがギークの世界で、そもそも車の話がほとんど出ない上に、出ても「免許もってません」という人が増えてきているのだ。


かつてオーナーズ・クラブに属していたほどの車好きだった自分も、最近は車への関心がめっきり減った。

地方都市の浜松も車社会で、車がないとどうにもならないが、幸い自宅が街の中心部に近いうえに、勤務先も歩いていける距離にある。休日の買出しを除けば車を使うことは滅多にない。

今乗っているコンパクトカーに不満はないのだが、維持費を考えたら軽も魅力。ロング・ドライブをして疲れない軽あったら考えるんだけどね。セルボSRなんか評判いいみたいだけど。
posted by かせっち at 21:37| Comment(2) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月26日

ジャギの物語 呂布の物語

漫画雑誌コミックバンチでは「北斗の拳」のスピンアウト漫画を幾つか連載してきた。現在まで北斗の長兄ラオウ、次兄トキ、南斗水鳥拳のレイをそれぞれ主人公にした3作品がある。

そして今週から北斗四兄弟の黒歴史、三兄ジャギを主人公にした漫画の連載が開始された。本編では雑魚キャラ扱いだったジャギがあのようになった経緯が明らかになるようだ。

また同誌では「三国志」の敵役・呂布を主人公にした漫画も連載されている。いずれの漫画も、元の物語では悪逆非道の徒として打ち倒される敵役を主人公に据えている点が興味深い。


つまりはジャギにはジャギの

呂布には呂布の物語があるということ



さて、昨今の世界的な景気後退を受け、自動車会社を中心に非正規社員の解雇が相次いでいる。新聞やテレビは専ら非正規社員の窮状を訴え、解雇した企業を批判的に報じている。

しかし解雇した企業の側にも「物語」がある、というのが以下のブログである。

ブログ主の務める会社も商品の生産休止に追い込まれ、全社員解雇の苦境に陥っている。それを下敷きにした論点は、メディアの薄っぺらい報道とは違う、生々しいものである。

一連の「内定取り消し」「派遣社員の契約解除」報道に思うこと(山本大成 「かわら屋の雑記帳」)

(エントリより)
 「内定取り消し」だの「派遣社員の契約解除」だののニュースがここの所マスコミを賑わしていますが、その立場で報道に接していて雇用する側の状況を多少なりとも考えた報道が全くなく、違和感を感じることが非常に多いです。

 ここ暫く、様々なBLOGでこの件に触れているのを見る度に私なりのコメントをさせていただいていますが、こんな立場での考え方があるのだと言うことを一人でも多くの方に知っていただくべく記事を書かせていただきます。


参考:
報道は公平に(幸か不幸か専業主婦)
posted by かせっち at 21:52| Comment(2) | TrackBack(1) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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