2013年03月04日

中毒患者

左翼の階級  利権屋(議員、ヤクザ)>過激派(全共闘)>プロ市民(オナニスト)(世の中を生暖かく見守るブログ)

教師にしてプロ市民の祖母を文字通り「反面教師」(笑)にしてネトウヨになった30代男性が、プロ市民の生態を解説。

(エントリより)
6 名も無き被検体774号+ 2012/10/13(土) 15:32:33.17 ID:Qq5QVv2g0
あれってもうかるの?
それとも日本嫌いってだけ?
普通ではないレベルでのモチベーションの維持がすごいよね

>>6
もうからない。
日本を「嫌い」って言うんじゃなくって、リベラルな自分にうっとりする手段が
自国を貶めることしか思いつかない人たちなんだよ。
たとえば洋楽好きの人たちが、洋楽の良さを語るときに
J-POPがクソだからというところから話を始めることしかできないように。
※俺は洋楽をけなしてるわけじゃない。洋楽大好きです。


モチベーションの維持は確かに凄い。
でもあの執拗さは現実逃避の側面が強いんだけどね。



9 名も無き被検体774号+ 2012/10/13(土) 17:10:00.30 ID:NqPZKLcX0
やっぱプロ市民の目的って金なの?

>>9
前述の通り、プロ市民って人権マフィアの人たちとは厳密に
住む水域というか階層が違うんで(接点は多いにあるが)、
金ではないね。
ようするに体制という、巨大で、旧態依然とした、醜悪で、悪い存在と
戦う自分カコイイって言うカタルシスの中毒患者。


団塊の世代って、全共闘の楽しさの余韻が醒めないまま
歳重ねたから、もう中毒から抜けられない。
俺の婆ちゃんなんかまさにそれなわけだが。
しかも元教師なんであとは推して知るべしwww



13 名も無き被検体774号+ 2012/10/13(土) 18:39:16.97 ID:6HlrFKqx0
あと、俺の婆ちゃんを例にとって言えば、彼らはそう「平等」が好きではない。
体制という共通の敵を討つ()ために連携しているんだけど、
内ゲバめいた仲間割れはしょっちゅうある。大抵金。

誰かが金を横領したとかって言う話より(あるかもしれないが)、
「活動費用が足りない。誰のせいだ」的な仲間割れを起こして空中分解。

"○○する市民のネットワーク"って奴が長続きせず離合集散を
繰り返すしては新しい団体が次々できるのはそういう理由。



16 名も無き被検体774号+ 2012/10/13(土) 18:58:54.85 ID:AG1ylLFc0
○○する市民のネットワークの収入源って主になに?

ばーちゃんは今でも現役のプロ市民?

20 名も無き被検体774号+ 2012/10/13(土) 19:18:51.10 ID:6HlrFKqx0
>>16
団体設立時に、その方面の利権ガッチリのところから援助が出る。
だけどまとまった金が出るのはその段階だけで、あとはカンパと本の押し売り。
カンパしてるのはいつも同じような顔ぶれなんだけどw
本は出版社がそもそも仲間がやってる会社だから、製本にかかる金だけ
ペイできればいいって考えだし。


ただね、そう金にはならないよ。
まあ彼らの場合、まさに「金じゃない」から。
巨大な悪と戦ってる自分(達)カコイイっていう錯覚の心地よさの中毒患者だから。



24 名も無き被検体774号+ 2012/10/13(土) 19:34:17.29 ID:/6LnII2V0
プロ市民は結局何がどうなれば満足なの?

>>24
決して満足しない。
魚が泳いでいないと呼吸できないように、彼らは抗議していないと呼吸できないし
何より生活が成り立たない。
その証拠に、米軍、人権、原発、ジェンダー、と言った本来リンクしない問題に
またがって活動している人間が多いこと多いことw
俺の婆ちゃんとか。
そして彼らが便利に使う言葉が「連帯」なんだよな。



58 名も無き被検体774号+ 2012/10/14(日) 02:09:34.45 ID:kDgE1ZaT0
俺は学のある人間ではないし、経験則で安直な表現でしか言えないけど、

社会主義って言うのは、金持ちへの嫉妬
そして左翼とかプロ市民って言う人種は、リア充への嫉妬

これで始まっていると思う。


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2011年02月06日

総括

連合赤軍 永田洋子の死に思う(依存症の独り言)

獄中で病死した連合赤軍最高幹部・永田洋子を、元極左のブログ主が総括する。

(エントリより)
人間の「真の解放」を目指したはずの人間が、同志を、仲間を虫けらのように殺害する。
正義感に燃えていたはずの人間が、どうしたらここまで残虐になれるのか?
そのギャップ、というより真逆に思える行為に、私は震撼した。
何を信じたらいいのか分からなくなった。

人間社会を階級の対立として捉え、支配される階級が支配する階級を暴力で倒す、それこそが人類が歩むべき正しい道。
そして、その暴力による闘争、つまり革命を指導するのは少数の前衛(職業革命家)。
今にして思えば、このような「選ばれし者が絶対」という思想がもたらした必然のような気がする。

当時は、まだ毛沢東による文革の暴虐は明らかにされていなかった。
クメール・ルージュによるカンボジア大虐殺も、この後のことだ。
もし、当時、日本のメディアで唯一中国に駐在していた朝日新聞や一部の狂信的知識人が、文革を賞賛していなければ、この事件は起きなかったかもしれない。
が、共産主義革命の本質は暴力であり、前衛が暗愚な大衆を覚醒させる思想である、
という点で、
この事件は、起こるべくして起こったと受け止めるべきだろう。
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2010年03月11日

理系と原理主義

[コラム]『高学歴のテロリストの半数近くが理数系出身』(Newsweek誌)の理由を考察する〜理数系の思考回路が原理主義に走りやすい理由(木走日記)

(エントリより)
過激思想に走りやすい?

理数系学生を警戒〜高学歴のテロリストの半数近くが理数系出身


<略>

 なぜ理数系がテロに走りやすいのか。専門家らによれば、理数系の人は社会を大きな機械のように考える傾向があるという。欠陥のある部分を除去したり交換することで、修復が可能だと考える。悪いものは取り除けばいい、という思考に陥りがちだ。一方、世の中には倫理的に曖昧な部分があるという考え方を受け入れるのが難しい。

 イスラム過激派がコーランの教えにジハード(聖戦)が含まれていると解釈するのも、理数系のこうした思考回路が影響していると、ニューヨーク市警察の情報分析官ミッチェル・シルバーは言う。

Newsweek日本版3月10日号 13頁より抜粋


<略>

 さてここで考察を深めたいのは、現代科学の実証主義を身につけた理数系の若者が科学ではない、宗教やイデオロギーと出会った場合です。

 その若者がその宗教やイデオロギーに対して冷静に対峙しその正当性に科学者らしく批判的態度で接することができうるならば問題はないのですが、何らかの理由(例えば一部のイスラム教過激派がそうであるようにその宗教が生まれたときから日常生活に深く関わり疑うことなく染みついている場合など)でその宗教やイデオロギーに心酔した場合、彼らが自ら信じた「宗教」や「イデオロギー」をひとつの科学的「理論」と見なしやすい傾向が文化系の人より強いのではないでしょうか。

 そうだとすれば、彼らは過激な行動に走りがちになることでしょう。

 なぜならば「宗教」や「イデオロギー」は「科学」とは違い明確な反証可能性を有してはいません。

 例えばイスラム教やキリスト教、あるいは共産主義やヒトラーを崇拝するネオナチが信じる全体主義思想がなぜ今現在も併存しているかといえば、それぞれを完全に反証することが不可能だからでしょう。

 理数系の思考回路で、反証実験不可能な「理論」を信じるとすると、残るのは正当性を検証する実証実験あるのみですから、彼らは彼らの信ずる「理論」の実践に躊躇することはないことなのでしょう。

 彼らの信ずる「理論」のその原理を追求していくことに何ら心のハードルもなく専念しやすいのでしょう。

 実際の科学実験が試行錯誤(トライアル・アンド・エラー)を認めているように、彼らの原理を追求する行動もその一部は過激なテロリズムへと深化していくこともあるのではないでしょうか。

 つまり特定の「宗教」や「イデオロギー」に心酔した理数系の思考回路は原理主義に走りやすいのではないでしょうか。


はぁ なるほど

そういえば 鳩山氏も工学部出身だったような…



参考:
汝、神を試す勿れ(当ブログ記事)
「自分たちで直せる」もの(当ブログ記事)
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2009年10月12日

理想主義の傲慢

理想主義の「輝き」(雪斎の随想録)

(エントリより)
 保守主義者が「進歩」や「発展」の価値を否定しないのと同様に、現実主義者は「理想」の意義を否定しない。保守主義者や現実主義者が嫌うのは、進歩主義や理想主義に傾く人々の持つ「偏狭」や「独善」の色合いである。


プログラマという職業柄、プログラムのバージョンアップにあたり、今までやってきた方式を継続するか、全く新しい方式を採用するか、選択を迫られることがある。今までやってきた方式には様々な問題があり、踏襲しても新たなメリットは少ない。一方で新しい方式は筋がよく、将来を考えると、乗り換えることが望ましいように見える。

そのことが判っていても、実際に新しい方式に乗り換えることは稀である。プログラムを使う側にとって常用なのは「今まで通り、又は、より向上して動いてくれること」あって、「今まで通りに動いてくれないこと」は評価どころか批判の対象になる。従来の方式で積み上げてきた実績を考えれば、新たな方式はリスクに他ならない。


実績のない新しい「理想」を過大評価する一方で

積み上げてきた実績という「現実」を過小評価し

継続性を無視してまで「理想」を押し通す

ここに理想主義者の傲慢を見る
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2009年10月10日

リバタリアンが嫌われる理由

リバタリアンの希望と勇気 - 書評 - 希望を捨てる勇気(404 Blog Not Found)

リバタリアンの池田信夫氏の著作『希望を捨てる勇気』の、小飼弾氏による書評。

(エントリより)
本書を読めば、よくわかる。

なぜリバタリアンは正しいかが。

そしてなぜリバタリアンは不人気なのかが。

<略>

私は、著者の主張する「かくあるべき」に基本的に賛成だ。沈みつつある船から人を救うのに必要なのは救命艇であって、三等船室にいる客を一等船室に移すことではないのだから。我々に必要なのはもっとたくさんの小さな船であって、大船の中で誰がどの部屋を取るべきかで争うことではないのだ。

だからこそ、著者を含めリバタリアンたちは、その「かくあるべき」に至る過程について、もっと考えた方がいいのではないか。

例えば、解雇規制の緩和。それ自体は「いずれは」雇用を増やすだろう。しかしそれだけは、救命ボートもないのに「海に飛び込め」と言っているのと同じではないか。

逆なのである。救命ボートが先なのである。

この順番を違えているから、リバタリアンたちの主張に誰も耳を貸さないのだ。
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2009年10月03日

博愛の持つ意味

鳩山由紀夫よ、「友愛」を口にするな。(雪斎の随想録)

鳩山首相の十八番「友愛」の元ネタである「博愛」が持つ意味について。

(エントリより)
 加えて、「友愛」理念は、何故、頻繁に語られるのか。「友愛」理念の元ネタは、フランス革命の「自由・平等・博愛」の標語の中の「博愛」( fraternité フラテルニテ)であるけれども、それは、正確には「同志愛」と訳すべき言葉である。故に、フラテルニテにおける愛や善意は、「同志」の間だけで通用するものであって、「同志」でない人々には通用しない。だから、革命の最中、フラテルニテの言葉の下で恐怖政治が行われ、「同志と認められない人々」には、ギロチン処刑を含む呵責ない弾圧が加えられた。これが、フラテルニテの言葉の持つ「裏の歴史」である。そういえば、昔日の共産主義者は、仲間のことを「同志!」と呼びかけていたわけであるけれども、「総括」や「粛清」が相次いだ件の人々には、途方もない偏狭の匂いがある。
 こういう多義的な意味を持つ言葉を安易に使うことの怖さは、鳩山一郎が国内向けに「友愛」として紹介していた時代ならまだしも、フラテルニテという元々の言葉で「友愛」理念が海外に紹介されている現在では、きちんと認識しておいた方がよいであろう。鳩山総理は、「価値観を認める」のが「友愛」の趣旨であると説明しているけれど
も、「多様な価値観を認めない」のが、フラテルニテの実際の姿である。だから、現在のフランスでも、イスラム教徒であるアルジェリア系移民の子女にスカーフ着用を認めていない。フランス文化の純粋性といったものには、強いこだわりを持っている。雪斎は、フランスにおける「自信の強さ」には敬服するけれども、日本人が、そうした「血の歴史」を知らないで「自由・平等・博愛」の言葉に寄り掛かるのは、率直に恥ずかしいと思う。
 
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2009年07月19日

平和主義者の好戦性

7月13日、交通トラブルから相手を所持していたナイフで刺して逃走した男が、殺人未遂容疑で自宅で逮捕された。

この事件で特筆すべきは、この容疑者が「みのお9条の会」、「共謀罪新設反対国際共同署名」の呼びかけ人であり、箕面市で無防備都市宣言運動に携わっていたことだ。

みのお9条の会呼びかけ人&無防備条例請求代表者の中井多賀宏さん、路上で大学生をメッタ刺し(柔らかNEWS)

(エントリより)
中井多賀宏容疑者は何で刃渡り10センチの折りたたみナイフを常時携帯しているのでしょう?
刃渡り10センチならば常時携帯しているだけで銃刀法違反ですよねぇ。

この凶悪な犯行で逮捕された中井多賀宏容疑者は人権運動や平和運動で名の通った人物です。本なども多数書いています。

<略>

平和を望み、他人に無防備であるよう説いていた人物が、日常では違法な武装をし、無防備な人間に襲い掛かり、ナイフで刺す…
箕面市民には無防備を押し付け、自分はしっかり武装。揉め事は残酷な先制攻撃で解決ですか…
言っている事とやっている事が滅茶苦茶すぎますね。矛盾の塊です。


いやぁ、これはダメだよね。しかもこの容疑者、組織の末端じゃなくて呼びかけ人でしょ?組織の呼びかけ人が組織の主張と真逆のことをしたら、その組織の姿勢自体が疑われるというのに…


憲法9条無防備論者による殺人未遂事件(週刊オブイェクト)
リデル=ハートの格言「平和主義者の好戦性」について(週刊オブイェクト)

(エントリより)
「戦争屋と話をすれば、平和を目指す努力以前に彼らの人間性の鈍感さにガッカリするが、それ以上に反戦平和主義者の好戦性によって戦争を排除することに絶望を感ずる」(B.H.リデル=ハート)


けだし名言なり
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2009年05月21日

「9条のために死ね」という人

ないものねだりでは?(ねこまんま)

憲法9条の信奉者の偽善。

(エントリより)
マガジン9条 この人に聞きたい

田村  9条は立憲主義を考えるうえで、とてもいい題材です。例えば、他国が軍事力で攻めてきたとき「国家が国民を守るのは当たり前だ」という考え方には説得力があります。だけど、国家にどう守らせるかは国民が憲法で決めるのが立憲主義です。9条は「戦争をしません」という守らせ方を選んでいるのです。国家=権力が行なう国防とは、国民を使って国をまもる行為であり、そのために何百万人もの国民が犠牲になった歴史がある。そういう形で国民の命を犠牲にさせないというのが9条です。


こういう解釈には無理があると思うんですが…
国民が守らないと誰が自分の国を守るの?(笑)

特にその後に出てくる…

もちろん、9条の目指す日本は、万が一他国から攻められても抵抗しない国家なのですから、国民の命が犠牲になることも覚悟しなければなりません。


…を読めば、国民が武力による抵抗をして死ぬのは容認できないけど、抵抗せずに虐殺されるのはかまわない…なんてことを日本国民が望んでいるとはとても思えません。


9条のためには国民の犠牲をも厭わないという思想が

天皇陛下のために一億玉砕を唱えたことと何が違うというのか

思考停止においては憲法9条を信奉する人間の言い草が

彼らが最も唾棄する人間の台詞と同じとは皮肉だ(笑)
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2009年02月23日

「日本ファシズム論」の始祖

日本がファシズムになると予言した人たち――新刊書「東京特派員」から(ステージ風発)

「日本にファシズムが到来する」という論を辿ると丸山真男に行き着くというお話。

(エントリより)
 「70年安保」を前にしたあの喧噪(けんそう)の時代。“団塊の世代”がまだ大学生だったころのことである。世は左派の知識人が論壇を跋扈(ばっこ)し、盛んに「革命前夜」のような幻想を振りまいていた。

 大学紛争が激しさを増して、東大の安田講堂をめぐる過激派学生と機動隊の攻防戦が起きた。お茶の水から神保町にかけては、学生たちが「神田カルティエラタン」と称して道路を封鎖した。

 こんな世情不穏の中で、ワイマール共和国のドイツになぞらえる議論がまことしやかに伝えられたものだ。背景にあるのは、雇用不安と政権政党の弱体化であり、この先、ヒトラーのような独裁者がやってくるとあまたの知識人が煽(あお)っていた。

 そんな折に、柔和な語り口のドイツ文学者、西義之が「乱暴を通り越して無責任な議論にすぎない」と切って捨てた。好々爺(こうこうや)のような東大教授であり、はにかむしぐさの裏に鋭利な言論の刃(やいば)を隠していた。

 西はこのとき、『ヒットラーがそこへやってきた』という雑誌連載によって、ナチスという魔物の正体を見事に腑分(ふわ)けしていた。同時に西は、事実に肉薄することによって、ファシズムの到来説が政治的なデマにすぎないことを立証してみせた。懐かしくも頼もしい論考である。

<略>

 彼は同時代の知識人の言動を克明に積み上げていくうちに、進歩的文化人の中に「事実そのものの発言を封ずる空気」を感じるようになっていく。

 この場合の進歩的文化人とは、岩波書店の雑誌『世界』や『朝日ジャーナル』などを舞台に、容共左派の立場から主張を展開した言論人たちを指す。

 問題は、なぜ彼らが現状をファシズムと結びつけたがるのかであった。西はその根をたぐっていくうちに、進歩的文化人の“教祖”である東大教授、丸山真男のいくつもの論文に行き当たる。

 早くから丸山理論の仮面をはがした人々に、社会思想家の関嘉彦、京大名誉教授の猪木正道らがいる。西の丸山批判には、思想の骨格をなすファシズム論に集約されるところに特徴があった。

 西は昭和50年に『誰がファシストか』を出版して、独伊にファシズムの源流をたどり、日本にファシズムがあったかを解き明かしていく。その結果、西は丸山こそが主著『現代政治の思想と行動』で、「反共=ファシズム」という単純化によって牽強(けんきょう)付会の虚構を築いたと痛烈に批判した。
posted by かせっち at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月20日

フロドは国を危うくする

国を愛する気持ちは変わらないかも知れないけど・・・。(あかさたなの執行実験場)

(エントリより)
「自由帳で数学とか物理とか」さんの派遣村を主催する左翼を擁護する記述で(ちなみにその人は経済的にリベラルなだけで政治的にはバリバリの右)で「右翼も左翼も方法が違うだけで国を愛する気持ちに変わりはない」とかいう記述がありましたが、左翼には決定的に軍事や国防、安全保障の知識が欠落している有様では、国をいくら愛しても任せることは無理だと思います。


かつてのエントリで媚中派、嫌中派、中国の三者を『ロード・オブ・ザ・リング』のフロド、サム、ゴラムになぞらえた。指輪の奪還を目論むゴラム、その意図を見抜き警戒するサム、ゴラムを盲目的に擁護するフロドの立場が中国と日本の嫌中派、媚中派に重なって見えたからだ。

この見方を拡大すれば、フロドは左翼、サムは右翼、ゴラムは近隣国となるだろう。

フロド(左翼)にすればゴラム(近隣国)を警戒するサム(右翼)は乱暴者にしか見えない。結果フロドはサムを放逐するが、信頼したゴラムに騙されて最大の危機に陥る。その危機を救ったのは、ゴラムを警戒していたサムだったのである。

自分はフロド、サム、ゴラムの旅の道行きを思い起こすにつけて、『ロード・オブ・ザ・リング』の舞台同様、変事にある世界情勢の中では、フロドのような態度は国を危うくすることを示唆しているように思えてならないのだ。


参照:
旅の道行き(当ブログ記事)
教育の賜物(当ブログ記事)
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2008年12月01日

老舗が生き残る条件

現在進行形の努力と「保守主義」(雪斎の随想録)

日本に数多ある老舗企業を枕に、保守主義について。

(エントリより)
 こうした「老舗企業」が続くのは、何故であろうか。
 それは、「昔、立派であったから…」ということだけで存続しているわけでもないし、その「過去の遺産」だけで食いつないでいるわけでもない。
 それは、それぞれの時代の当主を中心とした多くの人々の「現在進行形の努力」の集積でしかない。それぞれの世代が、「周囲の評判を落とさぬように…」ということを心がけて、日々、努力を続け、その努力が子々孫々にまで受け継がれてこそ、「老舗」が「老舗」となっているのである。それは、「現在進行形の努力」のリレーである。逆にいえば、どこかの時点で、「過去の栄光」に胡坐をかいたり、時代の要請に向き会わない振る舞いをする人々がいれば、そのリレーを途切れさせることになる。こうして「老舗」が「老舗」であるための条件は、時代の変遷に生真面目に向き合っていく「緊張感」と「ダイナミズム」である。そうした「緊張感」と「ダイナミズム」こそが、雪斎の考える「保守主義」の本質である。「日本の誇り」などと壊れたラジオのように語っている人々が、そうした「緊張感」と「ダイナミズム」を伴っているようには、雪斎には見受けられない。
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2008年11月14日

リアリズム

リアリズムは穏健さ、均整の感覚、限界の認識という姿を取る。(雪斎の随想録)

『ジョージ・ケナン』(リー・コンドン著)についてのエントリ。下記の指摘には同感。

(エントリより)
コンドンの著作の中に印象深い記述があった。
 「ケナンにとっては、リアリズムとは、穏健さ、均整の感覚、限界の認識という姿を取るものであった」。
 ここでいう「均整の感覚」(SENSE OF PROPORTION)というのは、ただ単に「二つの間で平衡を保つ」というものとは比べるべくもない複雑さを受け容れることを求めている。様々なファクターの中で、どれか一つや二つの価値を過剰に重んじないということが、具体的な姿勢である。安全保障政策領域でいえば、「軍事の効用を認めるが、それを総てとは考えない」といいうことである。「憲法改正さえ成れば国の誇りが取り戻せる」、「軍隊さえなくせば平和が実現する」…。これが「均整の感覚」とは程遠い思考の事例である。モンテスキューの『法の精神』の中にある「美徳ですらも過剰であれば害を及ぼす」という言葉は、そうした「均整の感覚」を端的に反映していよう、モンテスキューが「権力の分立」を説いた事情と照らし合わせれば、このことは興味深いであろう。
故に、「均整の感覚」は、「穏健さ」と「限界の認識」に結び付く。一つ一つの事柄には自ずから「限界」があるものだと思えば、それを打ち出すには、過激さは避けなければならなくなる。
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2008年10月25日

「反日」の理由

なぜ、日本の左派は「反日」なのか?(依存症の独り言)

欧米の左派は自国の国益に反することはしないが、日本の左派は明らかに「反日」に軸足を置く。その理由を元極左の坂眞氏が進駐軍の占領政策に絡めて解説する。

(エントリより)
結局、日本の左派は、戦後一貫して共産党と反日共の共産主義者が主流だったのである。これは米占領軍が最初は共産党に、その後は反日共の共産主義者に肩入れしたことが大きく影響している。
結果、わが国では健全な左派=社会民主主義が育たなかった。おかげで、本来は保守であるべき自民党の中に社会民主主義的体質を持つ政治勢力が生まれるという現象も起きた。そして、この自民党内の社会民主主義的体質を持つ政治勢力も、また、米占領軍による洗脳から逃れられないでいるのである。
今の日本政治の混沌は、突き詰めればここにある。

戦後日本政治が、保守を中心とする勢力と、「反国家」「反体制」を標榜する政治勢力の対峙でしかなかったことは、わが国にとって大きな不幸だったと思う。


参考:
「保守労働党」(当ブログ記事)
posted by かせっち at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月15日

メビウスの輪

【正論】「8月15日」 東洋学園大学准教授 櫻田淳(産経)

(記事より)
 12年前に世を去った高坂正堯教授(国際政治学者)が昭和40年代初頭に著した『宰相吉田茂』の中に、教授の「保守主義者」観を示す記述がある。以下に抜き出してみる。

 ◇ 自分は過去において相当な実績を挙げてきたのだという安らぎの感情は、社会の現在や未来に自信を与える。

 ◇ この自信の有無が保守主義者と反動家を区別する。

 ◇ 自信と心の安らぎがなければ、社会の進歩を取り入れることができない。

 ◇ 戦後の保守主義の基盤は、焦土の中から復興してきたという「実績」に求めるしかない。

 高坂教授の指摘を踏まえるならば、保守主義者は、自ら築き上げて来た実績の裏付けを伴わない限りは、たとえ「保守」を自称していても、「保守主義者」ではないということである。

 1990年代以降、戦後に優位を保った進歩主義思潮の影響力が決定的に後退したのは、彼らの言説が戦後の「実績」としての平和と繁栄の条件を護(まも)るのに役立たないことが、白日の下に曝(さら)されたからである。彼らの議論は、内外の変動の中で実践性の乏しい観念論として受け止められたのである。

 ≪進歩主義と別種の観念論≫

 ただし、進歩主義思潮の後退の後に浮上したのは、別種の観念論ではなかったろうか。筆者は、「あるべき日本」を頭の中だけで思い描き、それに向けて社会を導くというスタンスの言論を好まない。

 たとえば戦前期の「古き良き日本」の歳月の中で人格を形成した三島由紀夫や福田恆存のような知識人が戦後の風景に対する批判を寄せ、その故に「保守主義者」と呼ばれたのであれば、その事情を筆者は諒解(りょうかい)する。

 けれども、戦後の歳月に生まれ育った人々が、三島や福田の言説を真似(まね)しつつ、戦後の歩みに冷ややかな眼差(まなざ)しを向け、自らの体験とは無縁の「古き良き日本」の風景を恋慕するならば、それは、観念論の趣を濃厚に帯びることになる。

 「輝かしき共産主義社会」を夢想した往時の人々と「古き良き日本」に想(おも)いを寄せる現在の人々には、性格の差異はないのである。


自分は「左翼と右翼」という区別よりも、「理想主義と現実主義」という区別で物事を見ている。

左翼が共産主義・社会主義という理想論に囚われた理想主義者である一方で、懐古調の右翼もかつての日本に理想を求める理想主義者であり、「理想主義と現実主義」という切り分けにおいてはどちらも同じ側にいる。


左翼も右翼も互いに別の地平に立っていると思っている

しかし「理想主義と現実主義」のメビウスの輪において

同じ理想主義の極の裏表に佇んでいるだけである



そして故・高坂教授が示した「保守」の拠り所が「自ら築き上げて来た実績の裏付け」にあるとするならば、それは理想主義の対極にある現実主義ということができるだろう。「保守」とは「懐古主義」ではなく「現実主義」なのである。
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2008年06月11日

左翼と宗教

本日の中共・半島オチ(陳さんのWorld view)

左翼思想と一神教の関連について。

(エントリより)
▼耐えろ,負けるな「李明博大統領」(中韓を知りすぎた男)

左翼の思想とキリスト教の類似点について書かれているのです。
日本でも反天皇・反日の丸君が代・反資本主義しているキリスト教関係者は多いです。
なぜでしょうか?
天皇が一神教が目の仇にする八百万の神々を祀る神道の大祭司であるというのはさておいて、韓国・日本と共通する理由を述べますと、マルクス主義とはユダヤ・キリスト教文明から生まれたものであるからです。わかりやすく書きますと、
ユダヤ教から原始カトリック教が生まれ、カトリック教からプロテスタントと英国国教会が生まれ、プロテスタンティズムによって誕生した資本主義の中からマルクスレーニン主義が生まれました。
つまり、これは同一文化の中で生まれた兄弟宗教なのです。
私は以前、カトリックの修道院から神様とミサを取り除いたら共産党のコルホーズだと思っていましたが、九評共産党を読んで考えが変わりました。
マルクス主義と毛沢東思想・主体思想と名前はなんでもいいのですが、これの亜流は、全て宗教です。
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2008年03月30日

宗教的多元主義

本日の国際情勢オチ(陳胡痒のWorld view)

ブログ「苺畑より」のエントリ「イスラムの横暴に腰抜けなイギリス国教会」で指摘されている、昨今のキリスト教側から提起されている「宗教的多元主義」について。

(エントリより)
キリスト教は一神教ですから、そもそもイエスキリスト(三位一体の神)以外に神が存在するはずがないのです。
ですから、伝統的に他宗教などという概念は存在せず、神ならぬものを信じているそのままでは地獄に落ちてしまう可哀相な異教徒が存在するだけだったのです。
ですから、彼らの宣教師は救霊の使命感に刈られて、スポンサーである当時の覇権国の侵略の尖兵となって、植民地開拓と一体になった信者拡大に邁進したのです。
というのも、異教徒の土人どもは、そのままでは地獄に落ちて滅びてしまう気の毒な人たちなのであり、キリスト教徒になって植民地人となることは、それに比べたら100倍マシな話であると(当時の価値観では)思われたからです。(日本はこれを拒否してキリスト教を大弾圧しましたが)
つまり、宗教的多元主義とは、ある意味、文明に迷信のサポートを必要としなくなった人類の歴史の必然でもあるわけですが、一方でそうしたキリスト教の歴史の自己否定に他ならないわけですから、彼らが衰退するのは当然なのです。
問題の根源はキリスト教側から見るとそうしたものですが、イスラム教側はそうとは考えていないということなのです。彼らは未だにキリスト教が宗教的多元主義を取り入れる以前の価値観の中で生きており、それは「キリスト教徒やユダヤ教徒の土人どもは、そのままでは地獄に落ちて滅びてしまう気の毒な人たちなのであり、イスラム教徒改宗させなければならない。もし改宗させることができないなら、殺してしまうべきだ。なぜなら、異教徒の存在を許しておくことはイスラム教の拡大を妨げ、神への冒涜だからだ」というものです。
つまり向こうはユダヤ・キリスト教文明を滅ぼす気まんまんで、キリスト教側と共存する気などないなのに、ユダヤ・キリスト教側は妥協する気しかないのです。
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2008年03月02日

議論の仕方

左翼の二枚舌を見抜く方法(苺畑より)

(エントリより)
私がここ最近議論を交わしてきたあるフェミニストは、私がこれまでに遭遇してきた数知れない左翼連中となんらかわりはない。彼等一般に共通するのは、公平な議論をせず常に卑怯な手段で相手をはぐらかそうとするものである。そこで、私は今回彼等特有の卑怯な議論のやり方をある左翼フェミニストのやり方を例にとっておさらいしてみたい。断っておくが、これは決して特定の人間への個人攻撃ではない。

(A) 満たせない条件付きの提言(Argument by unsatisfiable conditionality)

<略>

(B) 既存する言葉の定義の書き換える(Law of tendentious redifinition)

<略>

(C) 限りなく漠然とした複雑な文章

<略>


詳細はリンク先を読んで頂くとして、ブログ主の主張する左翼の議論は、「暖簾に腕押し」「糠に釘」で読んでいてイライラする…


参考:
詭弁のガイドラインとは(はてなダイアリー)

(記事より)
真っ当な意見と見せかけ、実は詭弁で論点をはぐらかす輩が多々おります。

皆様も以下の「詭弁の特徴15条」を覚え、そういう輩を排除しましょう。
posted by かせっち at 21:16| Comment(0) | TrackBack(1) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月03日

左右分析

右翼と左翼の分析三題。手抜きご容赦(汗)

日本の右翼が反米になる理由(苺畑より)

(エントリより)
先日からコメンターの一宿一飯さんのコメントを読んでいて、なるほど〜と思うことがあった。それは日本の右翼や保守派の間でおきている所謂(いわゆる)『欧米アレルギー』のことである。

私はここ数年起きている日本人の反米意識が非常に不思議でしょうがなかった。リベラル派が自由資本主義のアメリカを嫌うのはしょうがないとしても、国土安全保証や防衛などという点で非常に強力な味方であるアメリカを未だに太平洋戦争で負けたのを恨んでいる一部の人は別として、普通の日本の右派が嫌うという理由が私には合点がいかなかったのである。

それがこの間の一連の会話の間で、私が計らずも言った、日本は「アメリカの悪い点ばかりを輸入している」ということがその原因なのではないかと気が付いた。


なんで左翼は自分を左翼と認めないのか?(苺畑より)

(エントリより)
大きな意味で左翼にしろ共産主義者にしろ動機は同じだ。これらの思想を一般市民が認めないことを彼等は知っている。彼等が左翼だとか共産主義者だということが暴露されれば普通の人はまじめに意見を聞いてくれないことを彼等は十分承知しているのだ。だからその事実はなんとか隠さなければならない。しかし彼等が自分達のことを「自分は左翼ではありません!」と断言しないのは、そのように断言して自分達の仲間から「裏切り者」と思われると困るからである。例えばエミちゃんにしても、左翼である以上アファーマティブアクションを支持しません!とは断言できない。かといって支持します、といってしまえば自分の正体がばれてしまう。だからそういう質問は間違っているとか、そんな単純な答えのでるものでもないとか、いい面もあれば悪い面もあるとかいって保守派や右翼の直接的な質問には絶対に答えないのである。


面白い左翼、レッテルと威圧の言動は「記憶力」に起因する(モズの餌)(三島明のホームペ-ジ)

(エントリより)
 左翼の言動は、明らかな欠落知識だから、物事をレッテルで判断する。しかも、リーダー的人物の「受け売り」がほとんどで、「自己の判断・思考を感じさせない」。相手を高圧的に威圧、非難するだけで、無知で欠落だから議論にならない

 信者が教祖を盲目的に信じ込んで、教祖の言いなり、教祖の悪口は徹底的に攻撃するのに、トテモ良く似ている。左翼は、「右翼は知能、学歴が低い」等と言っているが、記憶力の良い事と、知能が良い事を混同している。

 学校で優秀なのは、「記憶力が良い」のであって、「頭が良い」のとは別である現在の能の研究では、記憶力は知能の低いほど、良いものだと言う。つまり、人より動物、動物より、鳥などの方が記憶力が良いのである
posted by かせっち at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月09日

右にしても左にしても

佳きにつけ悪しきにつけ、我が祖国(雪斎の随想録)

(エントリより)
「進歩・左翼」層を中心として、明治以降の日本の歩みを否定的に把握する意見は、特に近隣諸国に及ぼした被害を強調する余りに、独立の維持に腐心した往時の日本人の努力には冷淡な眼差ししか向けていない。しかし、戦後の経済発展が明治以降の近代化、産業化の所産の上に成し遂げられた事情を前にすれば、少なくとも経済発展の成果の中で生きている人々が、戦前期の日本の歩みに否定的な眼差しだけを向けるのは、不誠実の謗りを免れないであろう。一方、「保守・右翼」層を中心として、日本の歩みを肯定的に把握する意見は、特に日清・日露の両戦役を経て「一等国」としての立場を得た近代の軌跡を「成功」と表現するかもしれないけれども、その「成功」それ自体が「苦み」を伴ったものであった事情には眼を背けたがる。そこには、「野蛮の沙汰」に乗じた軌跡を何かしら立派なことをしたとして語られるのを聴く居心地の悪さがあるのである。


あの時代、いじめっ子から身を守るためには、自らいじめっ子になるしか無かった、というところか。


参考:
『アメリカの鏡・日本』(ヘレン・ミアーズ/角川書店)
posted by かせっち at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月10日

システムは恣意性を排除する方向に進む

社長の華麗なる才能はナマモノである件について(日経ベンチャーonline 困った会社見本市)

(記事より)
 優秀な社長は雇った社員の誰よりも仕事ができる。「この仕事をやらせたら俺の右に出る者はいない」という強烈な自意識と、実際その通りに結果を出すことのできる能力で会社を引っ張ることになる。

 投資先の会合とかを観察していると、よく社内会議そのものが社長独演会となり、部下はメモを取っているだけ、という光景に出くわす。そこにいる誰よりも社長の能力が高いのだろうし、社員の側も雇われているのだから「社長、あんたの言ってることは違うと思います」と公衆の面前で反発することも難しい。実際、そういう会社は結果を出す。指揮系統がはっきりしていて、目標に向かって全員が束になると、それ相応の結果は出てくるものなのである。

 ところが、ある程度会社が大きくなってくると社長の唯我独尊に拍車がかかり、まるでピラミッドでも建設しかねない勢いの号令組織になっていく。誰も社長の首に鈴を付けられない。思ったような結果が出なくなる。投資していて良く見られる「社長の器以上に会社が大きくなってしまった」状態である。


上記は企業統治の例だが、『歴史の終わり』の主要な論点である経済と政治においても同じことに言える。

経済も政治も規模がある程度小さいうちは、これらを制御する力は一極集中させた方が効果を発揮する。例えそれが恣意的な運用であっても、システムは安定して回っていく。

しかしある規模を超えると一極集中の恣意的な運用では制御しきれなくなる。恣意的な運用から客観的なプロセスの確立と遵守、権力の一極集中から分散化へ移行する。

このようなシステムの恣意的な運用を排除していく過程を辿れば、経済においては資本主義が、政治においては民主主義が最終的に選択されるということになるのだろう。
posted by かせっち at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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