2009年01月21日

フクヤマ氏の期待

「アメリカの終わり」は、終わるのか(日経ビジネスオンライン)

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『歴史の終わり』の著者フランシス・フクヤマ氏がオバマ新大統領への期待を語る。

(記事より)
 「敵対国の指導者とも、無条件で話し合いをする」

 1月20日(現地時間)に新たに就任したバラク・オバマ米大統領は、就任前の外交方針の説明でこう述べ、ブッシュ前政権時代に一時、勢力を持ったネオコン(ネオコンサーバティズム、新保守主義)的ユニテラリズム(一国主義)に拠った外交とは、一線を画す考えを表明した。

 1992年に『歴史の終わり』(三笠書房)を上梓し、世界中の耳目を集めた日系米国人の学者フランシス・フクヤマ氏は、2006年に『アメリカの終わり』(講談社)を発表することで、公式にネオコンとの訣別を宣言した。

 そのフクヤマ氏に、米国が現在直面する問題と、新政権への期待について聞いた。
posted by かせっち at 21:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史の終わり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月13日

あのスローガンは正しかった

アメリカの迷走(復活!三輪のレッドアラート!)

ヨーロッパ、ロシア、中東の結節点に位置し、この地域でのアメリカの重要な戦略的パートナーであるトルコは、日本の従軍慰安婦問題に当たるような、アルメニア人虐殺問題を抱えている。

この問題に関し、最近アメリカ下院外交委員会はトルコに対する非難決議案を承認した。これに対しトルコは猛反発、駐米大使の召還で応酬した。

イラクの北隣に接しているため、イラク戦争以来その重要度は益々高まっているはずのトルコに対してこの仕打ち。このアメリカの迷走は何なのか?

(エントリより)
 ですが私には少しだけアメリカが狂って来た理由がわかります。
 つまりはグローバリズムなのです。今の世界には「アメリカを食い荒らして、アメリカが崩壊する事で儲けてやろう」と思う向きがあまりに多いのでしょう。
 そして、その様な狂人どもは、全くアメリカに愛着などもっていないのです。

 それを言うのならば、移民達もアメリカになど愛着を持っては居ないでしょう。便利だから住んでいるだけです。

 結局、アメリカを苗床として育ったグローバリズムと言う狂気は、アメリカ自身の「欲望によって成立する移民国」と言う安心立命には程遠い、一致団結と相容れない価値観が育てたのだと思います。


ホッブズは「自己保存(自分の命の保証)」を最重要に掲げ、ロックは私有財産と富の追求を付け加えた。それがアメリカ独立宣言の「生命、自由、幸福の権利」として結実する。

そもそもアメリカは、貧困と命の危険から祖国を捨ててやってきた移民達によって成り立った国。彼らが「自己保存」「私有財産」「富の追求」を最重要に掲げるのも当然と言えよう。

プラトンの魂の三分説で考えれば「自己保存」「私有財産」「富の追求」は「欲望」に基づく。「気概」は寧ろ「自己保存」を妨げるものとして、ホッブズによって忌避された。

かくして国への愛着や公共心の源泉である「気概」を捨て、都合よく「理性」を使って自分の「欲望」を鬼のように追求する人間が、アメリカの大地を闊歩することになったのである。


気概こそが人の人たる所以であり

欲望に基づいて行動するものは動物に同じ

というヘーゲルの意味において

「鬼畜米英」というスローガンは正しかったのである



参考:
ホッブズの「自由」とヘーゲルの「自由」
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2007年09月23日

ホッブズの「自由」とヘーゲルの「自由」

『歴史の終わり(上)』p.249)
人間は、たんに物理的に拘束されていないというホッブズ流の形式的な意味において自由なのではなく、そもそも自然によって決定づけられることはないという形而上学的な意味において自由なのである。ここでいう自然には、人間自身の本性、その周囲の自然環境、そして自然の法則がふくまれている。


『歴史の終わり』が下敷きにしているヘーゲルの歴史解釈では、人類の政治体制の最終形態はリベラルな民主主義だと説いている。それと対照させる意味でフクヤマは、アメリカに代表されるアングロサクソン流のリベラルな民主主義を紹介しているが、それはヘーゲルが想定した意味でのリベラルな民主主義とは、根本的なところで様相を異にしていることも同時に指摘している。

アングロサクソン流のリベラルな民主主義の起源を辿ると、『リヴァイアサン』を書いたイギリスの政治哲学者トマス・ホッブズに行き着く。ホッブズの「自然状態」の描写はヘーゲルの「歴史の始まり」に似通ってはいるが、両者の「自由」についての解釈の違いが、その後の歴史の進展についての考察に決定的な差を生み出していく。

ホッブズが考える「自由」とは、我々も容易に思いつく「物理的に拘束されていない状態」である。

ホッブズの「自由」の究極的な姿は、自分の命を守るために暴力に訴えることも是認される「自然権」だが、各人の自然権の行使は他者の命を脅かすことを意味する(「万人の万人に対する闘争」)。よって各人の自然権を制限する「自然法」に基づき、人々は自然権を一人の主権者に委ねることを契約する(社会契約説)。その結果、自然状態から社会契約に基づいた平等な市民社会に移行する。

一方ヘーゲルは、ホッブズとは異なる「自由」を提起する。

人間は、例え何者にも拘束されない状態に置かれたとしても、実際のところ人間の動物的本能、周囲の自然環境、自然の法則に従って生きていかなければならない。それでは本能のままに生きる動物や、物理法則に従って動く物体と変わらない。自然的・動物的な本性に逆らう行動を取れることが人間の人間たる所以であり、そのような行動を取ることこそが真の「自由」である、と。

そして「歴史の始まり」で「最初の人間」が繰り広げた、認知のために命を賭ける闘争は、「命を守る」という自己保存の本能に逆らう行為であり、これこそヘーゲルの説く「自由」を求める戦いといえる。そして「歴史の始まり」で繰り広げられた認知を求める闘争の結果、その勝者である君主と、闘争に敗れ、命を守るために君主に屈した奴隷の二重構造の社会が生まれた、とヘーゲルは分析する。

両者の「自由」を魂の三分説に関連付けてみると、ホッブズの「自由」は「欲望」に、ヘーゲルの「自由」は「気概」に立脚していることがわかる。そしてヘーゲルが「気概」から生まれた「認知への欲望」を是認し、「欲望」から生まれた「自己保存」を低く見ていたのに対し、ホッブズは「自己保存」こそ重要で、それを全うするためには「気概」から生まれる「誇り」「虚栄」に類するものを放棄することを要請する。

かくして、ホッブズが「誇り」を挫き「自己保存」を勧め、ロックが私有財産と富の追求を付け加えた自然権は、「生命、自由、幸福の権利」としてアメリカ独立宣言に反映される。そして「欲望」に立脚したアングロサクソンのリベラルな民主主義は、目先の自己保存や物質的幸福を追求し、「気概」に立脚する公共心も愛国心も持たない人間――「ブルジョア」を生み出すことになる。

一方、君主と奴隷の二重構造から出発したヘーゲルの歴史認識では、その後長い時間をかけて史的弁証法が繰り返される結果、アングロサクソンのリベラルな民主主義が放棄した「気概」をも満足するようなリベラルな民主主義に到達する、としている。つまり、冷戦に勝利したアングロサクソンのリベラルな民主主義が、ヘーゲルが想定したリベラルな民主主義に相応しいかは、未だ考察する余地があるのである。


参考:
歴史の終わり〈上〉(フランシス・フクヤマ/三笠書房)

トマス・ホッブズ(Wikipedia)
自然状態(Wikipedia)
アメリカ独立宣言(Wikipedia)
posted by かせっち at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の終わり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月15日

魂の三分説

『歴史の終わり』を読む上でヘーゲルの歴史解釈と並んで重要な概念が、プラトンの「魂の三分説」である。これは、魂には以下に示す3つの側面がある、というものである。

・「生きたい」「食べたい」という動物的本能に基づく「欲望」
・「損を避け、利を選ぶ」という理知的・計算的な部分の「理性」
・「尊厳」「誇り」「自尊心」「野心」に通じる「気概」

『歴史の終わり(上)』 p.274)
「気概」は、人間が生まれながらにもっている正義感のようなものだ。人々は、自分になにがしかの価値をもっていると確信しており、他人がそれを否定するような――自分の価値を正しく「認知」しないような――振る舞いをすると腹を立てるのである。英語で怒りと同義語であるindignation(憤り)という言葉を見ても、自己評価と怒りとの密接な関係がわかる。「尊厳(dignity)」は、人間の自分に対する価値観とかかわっていて、何かの拍子にその価値観が侵害されると「憤り」が生まれるのだ。

それとは逆に、自分が自分の自尊心にしたがって行動してはいないことを他人に悟られたとき、われわれは「羞恥心」を感じる。そして、自分が正当に(つまり自分の真価にふさわしく)評価されたときには「誇り」を感じるのである。


「気概」を別の言葉で説明すると「様々の物事に対して価値あるものにしようとする欲望」。自分自身に価値を見出せば「自尊心」「尊厳」となり、国に対して価値を見出せば「愛国心」となる。その価値が認められれば「誇り」を感じ、不当に貶められれば「怒り」を感じ、自ら価値に違う行動を取れば「羞恥」を感じる。

引用文中の「dignity」と「indignation」の関係は「気概」が「怒りの座」と言われる所以を示している。「dignity(尊厳)」に否定の接頭辞「in-」をつけると「indignity(侮辱)」、それが変化して「indignation(憤り)」。自分に対する価値である「尊厳」を「否定」され、「侮辱」されたことに「憤る」、というわけである。

ヘーゲルは「気概」を「自分にとって価値あるものに対し、他人も同じ評価して欲しい」という「認知への欲望」と解釈した。アングロサクソンの自由主義やマルクスの唯物史観が専ら「欲望」と「理性」の面を押し出しているのに対し、ヘーゲルは「気概」である「認知への欲望」こそが歴史を進展させる原動力と主張した。

『歴史の終わり』では「欲望」と「理性」で説明される経済的側面による歴史解釈の限界を示し、「気概」を加味したヘーゲルの歴史解釈を下敷きに、破綻した政治体制は「欲望」「理性」「気概」を満たせない欠陥を抱えていて、これらを全て(少なくとも現時点では最も)満足させる政治体制が必然的に生き残った、と指摘している。


参考:
歴史の終わり〈上〉(フランシス・フクヤマ/三笠書房)
posted by かせっち at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の終わり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月09日

歴史の終わり

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間 (フランシス・フクヤマ/三笠書房)
歴史の終わり〈下〉「歴史の終わり」後の「新しい歴史」の始まり(フランシス・フクヤマ/三笠書房)

かつてネオコンに与し、その後袂を分かったジョンズ・ホプキンズ大学教授フランシス・フクヤマの問題作。

1,989年のベルリンの壁崩壊をきっかけに、東欧諸国の共産主義体制が連鎖反応的に倒れていく様を見て、フクヤマは論文『歴史の終わり(原題:The End of History?)』を同年発表。各方面に議論を巻き起こしたこの論文について、湾岸戦争までの事実認定まで含めた形で論考を進め、1,992年に『歴史の終わり(原題:The End of History And The Last Man)』として刊行した。

「全てのものは矛盾を孕み、それ故に対立するものを生み出す。両者の対立の結果、より矛盾の少ない方が生き残る」というのがヘーゲルの弁証法。これを歴史に当てはめ、政治体制の発展の過程が歴史の進歩であるとするならば、様々な政治体制は弁証法によって淘汰され、最も矛盾の少ない政治体制が生まれたとき、それ以上の政治体制の発展はなくなる―――つまり「歴史は終わる」。

ヘーゲルは「リベラルな民主主義」が政治体制の最終到達点と予想した。一方マルクスはヘーゲルのロジックを踏襲しながら「共産主義体制」こそが政治体制の最終到達点と予想した。しかし20世紀末の共産主義国家の相次ぐ崩壊は、マルクスの予想を否定する。更にその他の独裁国家や全体主義国家も近年民主制に移行する事例を見れば、ヘーゲルの予想が正しかったように見える。

しかしヘーゲルに対するもう一人の批判者ニーチェは、別の観点からリベラルな民主主義を攻撃する―――「民主主義が君主と奴隷の関係を解いたのは確かだが、奴隷は「気概」に基づいた誇りを持たず、自分の欲望の充足にのみ満足する奴隷の意識のまま解放されたのではないのか?」―――そして、このような「最後の人間」達が為すリベラルな民主主義は本当に究極の政治体制なのか?

書いた人間がネオコンに与していたと聞いて、「やっぱり共産主義はダメ!アメリカの民主主義マンセー!」みたいな本かと思って敬遠していたが、実際に読んで見るとさにあらず、アメリカ的民主主義には寧ろ批判的であったりする。論考の根幹にはプラトン、ヘーゲル、マルクス、ニーチェらの哲学や歴史論が引用される。理系の自分には正直辛い(苦笑)

日系三世でありながら日本の理解について浅いところがあること(訳者の渡部昇一も指摘)、1,992年に書かれた本なので、その後の事実認定がない分は割り引いて読まなければならないが、それでも示唆に富む指摘は多い。この本の刊行後の911後の世界をフクヤマがどのように解釈しているかも興味あるところ。
posted by かせっち at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の終わり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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