2011年06月18日

国道150号を行く

東京に住む親族の誕生日に贈るメロンを買い求めに、袋井まで国道150号を走る。

今の時期の国道150号の道沿いには田植えの終わった水田が広がり、まるで緑の絨毯の中を走るようで気持ちがいい。その一方で、道沿いには潰れたコンビニやパチンコ屋に中古車屋、更地にされたばかりの空き地が今まで以上に目に付いた。

各町の中心部近くを走る主要幹線の国道1号に比べ、農業以外に目立った産業がない郊外(悪く言えば僻地)を走る国道150号ではビジネス的には不利とはいえ、「国道150号の寂れ様もここまできたか…」と思わざるを得なかった。

このような国道150号沿いの状況は御前崎に至るまで同じだが、その中で一部地域だけ例外がある。そこでは1車線から2車線に拡幅され、道沿いには比較的大きい商業施設が立ち並ぶ。それは旧浜岡町、即ち浜岡原発周辺である。

原発に関する交付金や補助金が国道及び周辺整備に投下された結果であることは、想像に難くない。そしてこのことは、原発交付金が止まれば旧浜岡町周辺も他の国道150号沿いのように寂れてしまうことを示しているようでもある。
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2011年03月29日

ワットをバイトに置き換えてみれば

福島第一原発の事故をきっかけに、原子力発電の是非が真剣に議論されるようになった。事故の惨状を見れば「危険な原発は即時全面停止すべし!」という意見が優勢である一方で、日本の発電量の1/4を原子力が担っているという現実もある。

原子炉1基の発電量(設備容量)は概ね100万キロワットである。一方、グリーン発電で最も効率が良いとされる風力発電は概ね1000キロワット。つまり両者には1000倍の開きがあり、原発を風力発電で代替するのは容易でないことがわかる。

わかりやすくするために電力の単位ワットを記憶容量の単位バイトに置き換えてみよう。


100万キロワット→100万キロバイト=1GB

1000キロワット→1000キロバイト=1MB


つまり、GBクラスのHDDとメモリがあることを前提に作られたWindows PCを使い慣れた人間に、1.44MBフロッピー一枚で起動するMS-DOSパソコンで仕事しろ、と言っているのに等しい。「原発やめて風力へ」と主張する方はこの現実にどう向き合うのだろうか。
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2010年05月08日

実名の盾 論拠の矛

勝間和代vs.ひろゆきGW決戦 秋に伏線あった(R25)

BSジャパンで放送された経済評論家の勝間和代氏と2ちゃんねる元管理人西村博之(通称ひろゆき)氏の対談について。かみあわない議論と、持論をひろゆき氏に次々と論破されたことにいらついたのか、「だめだこれ」などと番組ホスト役にあるまじき態度をとった勝間氏にネット上で非難が集中。結局勝間氏が自分のブログで謝罪を行うに至った。

この対談では「実名匿名論」という(はっきり言って古臭い)議論が為されたが、これには昨年の秋に伏線があったというお話。

(記事より)
この二人の「匿名・実名論争」だが、昨年10月にすでに始まっていた。毎日.jpの「勝間和代のクロストーク」で勝間氏は「ネット上でも実名で表現を」のタイトルでコラムを執筆。

「ネットがメディアとしての信頼性を高め、既存のメディアと肩を並べる存在になるには、表現者が自分の名前を開示し、責任の所在を明らかにすることが不可欠だと私は考えています。匿名コミュニケーションのままでは、いつまでもネットは周辺メディアの位置にとどまるでしょう」
「ネットを過激な陰口の場にしないためにも、思い切って、実名主義を進めてみませんか。それによって、コミュニケーションが円滑になるほか、ビジネス面での利用の際の信頼性も高まると確信しています」
と主張した。

この直後、ひろゆき氏はブログで勝間氏の名前は言及せずに
「基本的には、匿名派の人は、会社バレして面倒が起こるとかのデメリットの話をしているのに、実名派の人は、実名にはこんなメリットがあるよみたいな意見が多いのですね」
「匿名派の人は、相手の意見も踏まえた上で判断してるわけですが、実名派の人は、相手の意見に耳を傾けずに、自分の主張だけを声高に叫ぶ人が多いように見えるわけです」
と書いた。


ひろゆき氏の最後の指摘は興味深い。

自分の主張の論拠がテッパンでない限り、声高に叫ぶだけでは相手を説得できない。相手から指摘される批判・矛盾に対する答えに窮した時、最後に拠り所になるのは何か?

「自分の立場」である。

「自分の立場」が主張を正当化し、例え論拠不確かな主張を声高に叫んでも、「自分の立場」が盾となって批判をかわせる。そして「自分の立場」は自分の名を名乗ることで保証される。

「論拠の矛」の稚拙な扱いを「実名の盾」でカバーして議論する手合いが生命線である「実名の盾」を放棄するはずもない。彼らが実名論者に一致するなら、実名に拘る理由はここではないか。

もし彼らがそうではないというのであれば、「論拠の矛」だけで攻守戦う匿名論者達の議論の場に飛び込んでみればいい。手持ちの「論拠の矛」が鋭ければ、それで十分戦えるはずだ。
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2008年11月29日

差別と非差別の間・はじめに

突然ではあるが、「差別」ということについて考えてみたい。

ネットに対する槍玉の一つに「ネットには差別的言動に満ち溢れている」がある。確かに当たらずとも遠からずではあるが、その一方でマスメディアが取り上げる「その言い方は○○に対する差別だ!」という主張も、本当に差別といえるものか首を傾げることもある。

これは「差別」というものの言葉の定義がきちんと為されていないことにある。勿論広辞苑やWikipediaなどに当たれば字義的な定義は為されているだろうが、それが広く受け入れられていないか、「差別」という言葉を使う人が都合よく使っているのかもしれない。

そこで自分は差別と非差別を次のように提起する


その存在を以ってする非難は差別であるが

その行動を以ってする非難は差別とは言わない



その人の「存在」とは変えることができないこと、本人が選択できないこと。例えば出自、肌の色、身体的特徴などは本人の選択の余地なく、変えることもほぼ不可能だ。変えることのできないことを根拠に合理的な理由無く排除されたり非難されたりすることは理不尽なこと。故にこれは差別的と言えよう。

その一方で「行動」は変えることができ、本人が選択できることであり、その責任は行った本人が取るべきものである。だから日本人だろうが韓国人だろうがアメリカ人だろうがアフリカ人だろうが、アイヌだろうが在日だろうが同和だろうが、悪いことをすれば悪いと非難することは至極当然である。

上記が基本スタンスである。これは自分が掲げた仮説に過ぎない。この仮説が正しいかどうか、今後様々な事例を取り上げて検証していく。その過程で仮説の適用範囲を限定したり、仮説自体を修正する必要に迫られるかもしれない。しかしそれで「差別」そのもの理解が深まるのであれば、それは望むところ。

以上、開始の言葉として。
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2008年06月26日

工業化社会の「無償のインフラ」

農業社会の基盤である「天の恵み」が無償のインフラであるのに対し、工業・サービス業の社会の基盤である「社会インフラ」には生成・維持するためのコストがかかる、と昨日のエントリ「国土と人口が足枷になる時」で述べた。しかし工業・サービス業の社会にあっても「無償のインフラ」が存在する。

それは「信頼」である。

何故通販というビジネスが成り立つか?それは「通販のカタログに偽りはない」「注文した品物が確実に発注される」「宅配業者が品物を横流しをしない」「振り込んだ金額を横領しない」等、通販に関わるプレーヤーが基本的な部分で互いを「信頼」しているからである。

もし基本的な部分における「信頼」がなかったらどうなるか。通販ビジネスの各段階において事故リスクが発生し、ビジネスが成り立たない。例え事故が起きないように契約と罰則を強化したとしても、そのためのコストが膨大となり、やはりビジネスは破綻する。

このことは以前のエントリ「中国人は「超」資本主義か」で紹介した書籍『「みんなの意見」は案外正しい』で指摘されている。

『「みんなの意見」は案外正しい』p.133〜136より)
だが、一般に流布している強欲な資本主義というイメージは、現実とはかなりかけ離れている。資本主義の進化の道筋を検証すると、現実は信頼性の向上、透明性の確保、利己的な行動の制限という方向に向かっていることがわかる。そして、そのおかげで生産性が向上し、経済もまた成長を続けている。

<略>

経済学者のスティーブン・ナックは次のように述べている。「ある国家の経済成長に確実に貢献できる信頼というのは、まったくの赤の他人との間に存在する信頼である。正確には、無作為に選んだその国の住民二人の間に存在する信頼である。誰を知っているとか、個人的な評判といった要素があまり影響力を持たない、大きく流動性の高い社会においては、当事者双方にとって有益な取引はそれまで個人的なつながりがまったくなかった二者の間で行われることが多い」。


ここで言われているように、資本主義の発展には「赤の他人との信頼」が必要であり、かつこれが無償で行われなければ代替コストが膨大になるため、「国土と人口」と同じロジックで資本主義の発展に対する「足枷」になってしまう。


赤の他人との信頼…何と中国人に望めないものであろうか


以前あるブログで、来日した中国人を家電屋に連れて行ったところ、店頭展示品の家電を買おうとする話があった。中国では客が店や店員を信頼していないため、実際に自分の目の前で稼動している店頭展示品を買おうとするのである。

彼らの行動原理からすると、多くのプレーヤーが介在し、互いの基本的な信頼の上に成り立つ通販ビジネスが、「赤の他人との信頼」を結べない中国では成り立たず、その代替コストを客、店、メーカー等プレーヤーが強いられることは容易に想像できよう。

そして「赤の他人との信頼」の欠落こそが今の中国の最大のアキレス腱なのである。

改革開放前までの農業社会であれば、天から無償で与えられる「天の恵み」を享受すればよかった。例え野放図な発展と人口爆発が「天の恵み」を越えたにせよ、騒乱の果てに適正レベルに戻っていった。これが中国が繰り返してきた歴史である。

しかし現在の中国が目指しているのは工業・サービス業の社会である。この社会の発展には「赤の他人との信頼」が必要であり、そしてそれは「天の恵み」のように天から降ってくるものではなく、人々が努力して維持するものである。

歴史的に「赤の他人との信頼」を欠いてきた中国社会が、工業・サービス業の社会を目指したとき、「赤の他人との信頼」を築く努力をしなければ、いずれ「信頼」という「無償のインフラ」の代替コストが重くのしかかることになるだろう。


参考:
国土と人口が足枷になる時(当ブログ記事)
中国人は「超」資本主義か(当ブログ記事)
「共同体」観の違い(当ブログ記事)
posted by かせっち at 22:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 論考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月25日

国土と人口が足枷になる時

最近の中国を見るにつけ、「広い国土と人口の多さは国力の源泉どころか足枷になる」と漠然と考えていたものの、その理由については確たる考えがまとまっていなかった。しかし以下のブログを読んで視界が開けた感じがした。

天の恵み 地の怒り (チャイナ・クライシス 補追1)(日比野庵)

(エントリより)
現実に生きるという意味において「道教」は実に具体的・実践的な教え。呪術、おふだ、呪言、占いから、医学、本草学などまで取り入れている。だけど、そのような現実の世の中をとにかく生きるということを、社会体制として求める場合には条件がある。

ひとつには、無為自然で生きてゆけるほどの天の恵みがあること。もうひとつは、天の恵みを皆に分け与え、かつ行き渡らせられる社会であること。

これが成り立つためには、その土地が供給できる作物や資源の限界以下の人口と、モノを独り占めしないだけの民度が要る。だけど、今の中国ではもう危うくなりつつある。


ここに出てきた「天の恵み」という言葉から、国土・人口と国力の相関についての論考してみたい。

農業とは「天の恵み」から利益を得る産業であり、国土という受け皿に落ちた「天の恵み」を人手によって収穫するものと言える。よってより多くの利益を得るためには、受け皿を大きくし、収穫の人手を多くすればよい。つまり農業を主体とする経済においては、広い国土と人口の多さは経済の大きさを示し、ひいては国力の指標となる。

その一方で、農業では「天の恵み」以上の利益は得られない。例えば農家が田畑での1年間の労働で得る現金収入の数百倍の金額を、デイトレーダーはマウスとキーボードの数時間の操作で稼ぎ出してしまう。つまり工業・サービス業は農業ほどの土地と人手をかけなくても、農業以上の稼ぎを叩きだせる。

しかしデイトレーダーが農家以上の稼ぎを生み出せるのは、パソコンが安価で買え、ネットの環境が整備され、ネットによる証券取引サービスがあり、得られた対価を確実に現金化できる各種制度―――つまり、このような「社会インフラ」があるからである。「社会インフラ」を基盤とすることで工業・サービス業は土地と人手の限界を超えた利益を生み出す。

ここで「天の恵み」と「社会インフラ」を対置して考えてみよう。

工業・サービス業の基盤が「社会インフラ」にあるように、農業の基盤である「天の恵み」は農業における「インフラ」と見なすことができる。しかし両者が決定的に違うのは、「天の恵み」が「無償のインフラ」であるのに対し、「社会インフラ」は富・資源・(人的・物的)エネルギーをかけて人為的に生成し、かつ維持しなければならないことである。

このように考えると「広い国土と人口の多さが国力の足枷になる」ことの説明がつく。つまり、工業・サービス業を主体とする経済においては、基盤となる社会インフラを人為的に生成・維持しなければならないため、国土が広くなり人口が多くなれば、インフラ整備にかかるコストもそれに応じて増大していくのである。

中国を例にしてみよう。あの広大な国土の隅々まで日本と同レベルのインフラを整備し、13億の民に対して日本と同レベルの各種サービスを提供するのに、一体どれだけの富・資源・エネルギーが必要になるか。それは今、中国が稼ぎ出している富を軽く吹き飛ばすことは、容易に想像できるだろう。

その一方、シンガポールはマレー半島の先端の狭小な国土しかもたないが、貿易に専念することで国土から得られる以上の経済規模を誇っている。狭小な国土が逆に功を奏し、得られた富を過大にインフラに再投資する必要もない。このように考えると、工業・サービス業を主体とした経済においては、それに見合った国土と人口があるように思われる。


「広い国土と人口の多さは国力の源泉」という考えは

農業社会中心の時代では真理だったかもしれない

しかし工業化社会、その後の脱工業化社会においては

広い国土と人口の多さは国力の足枷になりかねない
posted by かせっち at 21:51| Comment(2) | TrackBack(1) | 論考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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