最近「仮説思考」「仮説力」という言葉をビジネス書などで見掛ける。「イノベーションのジレンマ」シリーズでクリステンセンが説く「破壊的イノベーション」を見つける方法というのも、言ってみれば仮説思考だったりする。
営業担当者が顧客が抱える課題を引き出すヒアリングの際には、前もって仮説を立てておくことが重要と言われているが、下手に使うと顧客をミスリードして真実を歪ませる、というのがこのコラムの趣旨である。
この中で「情報」について以下のように述べている。
(記事より)
情報には「客観的事実」「評価」「仮説」の3つがある。
「月末の数字を締めるのに3日間かかる」というのは事実だが、「月末の数字を締める業務が非効率になっている」というのは「非効率である」と、その人が評価している情報だ。その人にとっての主観的な事実ではあるが、客観的な事実ではない。
また、「経理部のA氏が、『非効率で困る』と言った」というのは事実だが、「経理部門全体が非効率な業務に悩まされている」というのは、「経理部門全体がおそらく悩んでいるだろう」という仮説である。
人は、客観的事実と評価、仮説を混在させて話をする。主観的な評価や仮説があたかも客観的な事実であるかのように話す。物事の本質を理解するには、相手から引き出された情報が、客観的事実なのか、評価なのか、仮説なのか、しっかりと区別していかなければならない。
最後の段落はマスコミが垂れ流す「情報」にそっくりそのまま当てはまる。
新聞記事をよく読むと、事実関係はほんのちょっとで、残りは記者の主観的な評価や仮説(或いは妄想(笑))であることは多い。そして評価や仮説の主体者が記者自身であることを隠すことで、それらがあたかも客観的事実であるかのようにすりかえる。
彼らはこうやって読者をミスリードする。
新聞を読むときは気をつけよう
何が実際に起きた「事実」なのか
何が記者が下した「評価」なのか
何が記者が考えた「仮説」なのか
参考:
新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか(CNET Japan/ジャーナリストの視点)
(エントリより)
ある特定の観点を<われわれ>の観点とみなすこと、特定の主張を<われわれ>の名において主張すること、<われわれ>の意識をある特定の意識の中に囲い込もうとすることを意味している以外ではないだろう。私たちがそこから何ほどかのアジテーション的なうっとうしさ、押しつけがましさ、あるいはイデオロギー的な臭気を感じとるのもそのためだと言っていい。その文脈において仮構されている<われわれ>の意識と受け手の側の<われわれ>の意識とのズレが大きければ大きいほど、私たちが甘受するそのうっとうしさ、押しつけがましさの度合いもまた、それだけ高くなるはずである。
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