2008年06月28日

蛍光灯の色

家の照明は、前の家主が残していったものをそのまま使っていたが、蛍光灯の点きが悪いものが幾つかあり、徐々に新しいものと交換している。

家電屋の蛍光灯コーナーに行くと、所望のワット数の蛍光灯はすぐ見つかるのだが、同じワット数でも色違いのものがあることに気が付く。


この蛍光灯の色って何よ?


ということでちょいと調べて見ると、蛍光灯の色には大きく分けて「昼光色」「昼白色」「電球色」の三種類があり、端的に表現すると以下のようになる

昼光色…青っぽい白
昼白色…普通の白
電球色…赤っぽい白


デザイン系の表現を使えば、昼光色は「寒色系の白」、電球色は「暖色系の白」、そして昼白色はその中間といえばよいだろうか。

蛍光灯の色なんてどうでもいいだろう、と思うとさにあらず。人間心理と相まって、部屋やシチュエーションに合った色があるという。

例えば、暖色系は食べ物をおいしく見せるので、食堂には電球色が望ましいとか、寒色系は頭を冴えさせるので、デスクライトには昼光色がいい、などなど。

実際見比べて見ると、寒色系の昼光色は青白い光なので、何となく薄暗く感じさせる一方、暖色系の電球色は赤っぽい光なので、暑苦しく感じることもある。

「普通の白」の昼白色を基本線にしておいて、部屋とシチュエーションに合わせて昼光色や電球色を選択するというのが、無難なところか。


参考:
照明@住まい
posted by かせっち at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月26日

工業化社会の「無償のインフラ」

農業社会の基盤である「天の恵み」が無償のインフラであるのに対し、工業・サービス業の社会の基盤である「社会インフラ」には生成・維持するためのコストがかかる、と昨日のエントリ「国土と人口が足枷になる時」で述べた。しかし工業・サービス業の社会にあっても「無償のインフラ」が存在する。

それは「信頼」である。

何故通販というビジネスが成り立つか?それは「通販のカタログに偽りはない」「注文した品物が確実に発注される」「宅配業者が品物を横流しをしない」「振り込んだ金額を横領しない」等、通販に関わるプレーヤーが基本的な部分で互いを「信頼」しているからである。

もし基本的な部分における「信頼」がなかったらどうなるか。通販ビジネスの各段階において事故リスクが発生し、ビジネスが成り立たない。例え事故が起きないように契約と罰則を強化したとしても、そのためのコストが膨大となり、やはりビジネスは破綻する。

このことは以前のエントリ「中国人は「超」資本主義か」で紹介した書籍『「みんなの意見」は案外正しい』で指摘されている。

『「みんなの意見」は案外正しい』p.133〜136より)
だが、一般に流布している強欲な資本主義というイメージは、現実とはかなりかけ離れている。資本主義の進化の道筋を検証すると、現実は信頼性の向上、透明性の確保、利己的な行動の制限という方向に向かっていることがわかる。そして、そのおかげで生産性が向上し、経済もまた成長を続けている。

<略>

経済学者のスティーブン・ナックは次のように述べている。「ある国家の経済成長に確実に貢献できる信頼というのは、まったくの赤の他人との間に存在する信頼である。正確には、無作為に選んだその国の住民二人の間に存在する信頼である。誰を知っているとか、個人的な評判といった要素があまり影響力を持たない、大きく流動性の高い社会においては、当事者双方にとって有益な取引はそれまで個人的なつながりがまったくなかった二者の間で行われることが多い」。


ここで言われているように、資本主義の発展には「赤の他人との信頼」が必要であり、かつこれが無償で行われなければ代替コストが膨大になるため、「国土と人口」と同じロジックで資本主義の発展に対する「足枷」になってしまう。


赤の他人との信頼…何と中国人に望めないものであろうか


以前あるブログで、来日した中国人を家電屋に連れて行ったところ、店頭展示品の家電を買おうとする話があった。中国では客が店や店員を信頼していないため、実際に自分の目の前で稼動している店頭展示品を買おうとするのである。

彼らの行動原理からすると、多くのプレーヤーが介在し、互いの基本的な信頼の上に成り立つ通販ビジネスが、「赤の他人との信頼」を結べない中国では成り立たず、その代替コストを客、店、メーカー等プレーヤーが強いられることは容易に想像できよう。

そして「赤の他人との信頼」の欠落こそが今の中国の最大のアキレス腱なのである。

改革開放前までの農業社会であれば、天から無償で与えられる「天の恵み」を享受すればよかった。例え野放図な発展と人口爆発が「天の恵み」を越えたにせよ、騒乱の果てに適正レベルに戻っていった。これが中国が繰り返してきた歴史である。

しかし現在の中国が目指しているのは工業・サービス業の社会である。この社会の発展には「赤の他人との信頼」が必要であり、そしてそれは「天の恵み」のように天から降ってくるものではなく、人々が努力して維持するものである。

歴史的に「赤の他人との信頼」を欠いてきた中国社会が、工業・サービス業の社会を目指したとき、「赤の他人との信頼」を築く努力をしなければ、いずれ「信頼」という「無償のインフラ」の代替コストが重くのしかかることになるだろう。


参考:
国土と人口が足枷になる時(当ブログ記事)
中国人は「超」資本主義か(当ブログ記事)
「共同体」観の違い(当ブログ記事)
posted by かせっち at 22:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 論考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月25日

国土と人口が足枷になる時

最近の中国を見るにつけ、「広い国土と人口の多さは国力の源泉どころか足枷になる」と漠然と考えていたものの、その理由については確たる考えがまとまっていなかった。しかし以下のブログを読んで視界が開けた感じがした。

天の恵み 地の怒り (チャイナ・クライシス 補追1)(日比野庵)

(エントリより)
現実に生きるという意味において「道教」は実に具体的・実践的な教え。呪術、おふだ、呪言、占いから、医学、本草学などまで取り入れている。だけど、そのような現実の世の中をとにかく生きるということを、社会体制として求める場合には条件がある。

ひとつには、無為自然で生きてゆけるほどの天の恵みがあること。もうひとつは、天の恵みを皆に分け与え、かつ行き渡らせられる社会であること。

これが成り立つためには、その土地が供給できる作物や資源の限界以下の人口と、モノを独り占めしないだけの民度が要る。だけど、今の中国ではもう危うくなりつつある。


ここに出てきた「天の恵み」という言葉から、国土・人口と国力の相関についての論考してみたい。

農業とは「天の恵み」から利益を得る産業であり、国土という受け皿に落ちた「天の恵み」を人手によって収穫するものと言える。よってより多くの利益を得るためには、受け皿を大きくし、収穫の人手を多くすればよい。つまり農業を主体とする経済においては、広い国土と人口の多さは経済の大きさを示し、ひいては国力の指標となる。

その一方で、農業では「天の恵み」以上の利益は得られない。例えば農家が田畑での1年間の労働で得る現金収入の数百倍の金額を、デイトレーダーはマウスとキーボードの数時間の操作で稼ぎ出してしまう。つまり工業・サービス業は農業ほどの土地と人手をかけなくても、農業以上の稼ぎを叩きだせる。

しかしデイトレーダーが農家以上の稼ぎを生み出せるのは、パソコンが安価で買え、ネットの環境が整備され、ネットによる証券取引サービスがあり、得られた対価を確実に現金化できる各種制度―――つまり、このような「社会インフラ」があるからである。「社会インフラ」を基盤とすることで工業・サービス業は土地と人手の限界を超えた利益を生み出す。

ここで「天の恵み」と「社会インフラ」を対置して考えてみよう。

工業・サービス業の基盤が「社会インフラ」にあるように、農業の基盤である「天の恵み」は農業における「インフラ」と見なすことができる。しかし両者が決定的に違うのは、「天の恵み」が「無償のインフラ」であるのに対し、「社会インフラ」は富・資源・(人的・物的)エネルギーをかけて人為的に生成し、かつ維持しなければならないことである。

このように考えると「広い国土と人口の多さが国力の足枷になる」ことの説明がつく。つまり、工業・サービス業を主体とする経済においては、基盤となる社会インフラを人為的に生成・維持しなければならないため、国土が広くなり人口が多くなれば、インフラ整備にかかるコストもそれに応じて増大していくのである。

中国を例にしてみよう。あの広大な国土の隅々まで日本と同レベルのインフラを整備し、13億の民に対して日本と同レベルの各種サービスを提供するのに、一体どれだけの富・資源・エネルギーが必要になるか。それは今、中国が稼ぎ出している富を軽く吹き飛ばすことは、容易に想像できるだろう。

その一方、シンガポールはマレー半島の先端の狭小な国土しかもたないが、貿易に専念することで国土から得られる以上の経済規模を誇っている。狭小な国土が逆に功を奏し、得られた富を過大にインフラに再投資する必要もない。このように考えると、工業・サービス業を主体とした経済においては、それに見合った国土と人口があるように思われる。


「広い国土と人口の多さは国力の源泉」という考えは

農業社会中心の時代では真理だったかもしれない

しかし工業化社会、その後の脱工業化社会においては

広い国土と人口の多さは国力の足枷になりかねない
posted by かせっち at 21:51| Comment(2) | TrackBack(1) | 論考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月22日

同レベル

※2008/6/22追記して再投稿
※2008/6/21追記して再投稿
※2008/6/20初出


日頃ネットを敵視し、ネット上の言論を「便所の落書き」呼ばわりするマスメディア。その一員である朝日新聞がどんな立派なご高説を垂れてくれるのかと言うと、

(朝日新聞6/18付け夕刊「素粒子」より)
 永世死刑執行人 鳩山法相。
「自信と責任」に胸を張り、2
カ月間隔でゴーサイン出して新
記録達成。またの名、死に神。


これ何てブログの脊髄反射?(冷笑)


こんな市井のブロガーが書くような記事を流してくれた以上、「ネットの記事に信頼性などない」という批判の言葉はそっくり新聞社にお返ししよう。


※2008/6/21追記
「死に神」呼ばわりされた鳩山法相の抗議に対する朝日新聞の返答。

ぼやきくっくりの記事より)
 と、ここまで書いて追加情報。

 別に「ミヤネ屋」を見てたわけじゃないと思いますが、朝日新聞社広報部はその後、「『素粒子』は筆者が政治、社会現象を批評するコラムです。鳩山氏や関係者を中傷する意図は全くありませんというコメントを出した模様(朝日6/20←13時35分更新と書いてあるけど、ほんとですか?)。

 じゃあどんな意図で「死に神」なんて書いたんでしょうか。そこのところを是非聞かせてほしいですね。

 朝日新聞はこの際もう「死に神新聞」って改名したらどうでしょう?
 (「ぼやきくっくり」は筆者が政治、社会現象を批評するブログです。朝日新聞を中傷する意図は全くありません)


いやはや、こんな言い訳が通用するなら、早速くっくりさんがやっているような予防線を幾らでも張れる訳だが(爆笑)


『今日の与太話 on the Blog』は

世の中の様々な出来事を題材に駄文を並べたブログです

特定の人物・組織を中傷する意図は全くありません(笑)



※2008/6/22追記
朝日が鳩山法相を「死に神」呼ばわりの件(朝日歌壇鑑賞会【今週の作品】)

(エントリより)
 これについては、弁護士・川原俊明先生のブログ記事↓に全て言い尽くされていますのでそのままご紹介。光市母子殺人事件の弁護団のような人間の屑弁護士ばかりが目立つ中、真っ当な弁護士先生もちゃんといらっしゃるのです。

鳩山法相は、「死に神」なのだろうか(6/19記事)
 …現在の日本の刑法では、殺人罪などの凶悪犯罪に対し、明らかに死刑に処すことがあることを、明記されています。
 裁判所は、事件の諸事情を勘案し、相当の勇気を持って死刑判決を言い渡しているのです。死刑判決が確定した死刑囚に対し、死刑執行をするのは、法律に基づいたものであり、時の法務大臣は、死刑執行の義務があります。
 (中略)
 法律に基づいた死刑執行を非難するならば、法律を無視していることと同じです。法律の内容が不適切であれば、法律改正を考えるべきであります。


<略>

 だいたい、裁判所が死刑判決を下したのに、法相が自分の勝手な意思で死刑執行せずにおいて事実上の無期懲役刑にしてしまっていいんですか? 行政府が司法府を無視したことになってしまい、三権分立をゆるがす大問題ですよ。憲法を守れと普段から主張している朝日らしくもないじゃありませんか。


参考:
朝日新聞「死に神」報道に法相激怒 「死刑執行された方に対する侮辱」(痛いニュース)
posted by かせっち at 19:59| Comment(2) | TrackBack(2) | 朝日新聞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月14日

ぼやける境界線

※2008/6/14追記して再投稿

今日は引用のみ。手抜き御容赦。

秋葉原事件で融解した「野次馬」と「報道」の境界(ガ島流ネット社会学)

(記事より)
 週末、秋葉原で起きた通り魔事件は大変痛ましいものだった。事件そのものだけでなく、犯人逮捕の瞬間を撮影したり、現場から「生中継」が行われたり、マスメディアよりも早く、詳細に、普通の人々によって事件が記録、発信されたことのインパクトも大きかった。(ガ島流ネット社会学)

 ブログなどの登場によって「誰もがジャーナリスト化」したことは数年前から議論してきたが、変化の大きさや社会に与える意味は起きてみて初めてわかる。「野次馬」と「報道」の違いとは何か、マスメディアの正当性とは、メディア化した個人の倫理はどうあるべきなのか……。事件はさまざまな問題を浮き彫りにしている。

<略>

 誰もが発信できる時代には、これまでマスメディアの人たちが経験した葛藤が誰にも起き得ることを示している。

 そして、誰もが発信できるとなると、「野次馬」と「報道」の違い、そしてマスメディアの正当性も揺らいでくる。はてなブックマークには『マスコミが伝えると「報道の責務を果たす」になって、個人が伝えると「野次馬」というのは軸としておかしい』『「撮っていい人」と「撮ってはいけない人」を分け隔てているのは何だろう。カメラの口径?職業意識?倫理観?「報道」の腕章?そもそもそんなものがあるのだろうか』というコメントがあった。

 誰が「野次馬」と「報道」の境界を明確に説明できると言うのだろうか。


※2008/6/14追記
同じ空間を共有できていたのか−−秋葉原事件の撮影について(CNET Japanブログ)

(エントリより)
 この興奮のメディア空間の中で、マスメディアはいったいどのような役割を果たしているのか。もちろん第一義的には情報を視聴者のもとへと運ぶコンテナーの役割を持っているのだけれども、それと同時にマスメディアは、野次馬根性を「公共性」という甘ったるい生クリームでからめとってしまい、むき出しの野次馬根性を覆い隠してくれる役割を持っている。

 つまり本当は単なる野次馬根性で殺人事件のニュースを観ている人たちも、「こんなひどい事件は信じられない」「世の中が悪くなっている」と詠嘆してみせて、社会正義を希求しているふりをすることができるのだ。古舘伊知郎キャスターや「ニュースゼロ」の村尾信尚キャスターの深刻そうなしかめ面は、そうした社会正義を保つための共同幻想装置の補助デバイスになっているのだ。

 しかしこの共同幻想装置は、いまや崩壊し始めている。マスコミの裏側がよく見えるようになり、インターネットにおける対抗言論の登場が、その状況に拍車をかけた。この結果、テレビのカメラに対しても自分の生身のエゴと同じような野次馬根性が見えてしまうようになってきて、甘ったるい生クリームははげ落ちつつある。人々はマスメディアのカメラに、一般の人の撮影と同じぐらいの不快感を抱くようになったのだ。
posted by かせっち at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | メディア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月13日

論理的な詭弁

カラスは白い!?(日経BP)

(コラムより)
 あるシンクタンクで働く人から聞いたぼやき話。

 職場の“お偉いさん”で論理力の強い人がいる。その人は結構、周りに迷惑を掛けているのだが、それに対して周りがうまくクレームを付けることができないという。

<略>

 彼は人気の少年漫画『ONE PIECE(ワンピース)』(尾田栄一郎、講談社、1997〜)風にいえば、“「論理の実」の能力者”である(編集部注:食べると特殊な能力が身に付く「悪魔の実」は作品中に出てくる架空の果実。能力には様々な種類があり、食べた者は「悪魔の実の能力者」と呼ばれる)。

 この論理の実の能力者の手に掛かると、どんなおかしなことでも“証明”されてしまう。上級者ともなれば、後述するような手口で「カラスは白い」ことを証明することさえできる。


これを読んで思い浮かべたのが「詭弁のガイドライン」。

詭弁のガイドラインとは(はてなダイアリー)

(エントリより)
2chに登場したとされる典型的な「詭弁」のリスト。

15条のパターンが多いが、ソースによって18条であるなど、細かい部分に違いがあるようである。

真っ当な意見と見せかけ、実は詭弁で論点をはぐらかす輩が多々おります。

皆様も以下の「詭弁の特徴15条」を覚え、そういう輩を排除しましょう。
posted by かせっち at 21:33| Comment(0) | TrackBack(1) | ブログ&ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月11日

雑記二題

※2008/10/5変更

紹介する記事にはコメントをつける努力しているつもりだが、秀逸な記事をできるだけ早く紹介することと、コメントをひねり出す時間を勘案すると、前者を選択してしまうことが多い。

という言い訳をして、本日も手抜き御容赦(笑)


※2008/10/5変更
以前取り上げた記事はこちらに移動しました→
「左翼と宗教」


秋葉原殺人犯の孤独と苦痛−今日のこの事件を数十年前から予言していたドラッカー氏に学ぶ?!(Funny Restaurant)

Absenteの酔いどれblogで取り上げられていた記事。

(エントリより)
この事件を数十年前から予言しているドラッカー氏?

私は、この犯人を弁護するきなどもうとうありません。どんなことにがあったにせよ、無差別殺人などすべきではありません。しかし、こうした犯人にとっても不幸な事件をなるべく起こらないようにしていく必要はあると思います。

この犯人の生い立ちや、日常生活などいろいろ報道されています。評論家などがいろいろもっともらしいことを言っています。しかし、どれも中途半端な気がします。今日のこの事件に限らず、都会の犯罪に関して、数十年前(少なくとも30年前以上)から警告を出していた人がいます。それは、経営学の大家である故ドラッカー氏です。

<略>

「未来社会への変革」の要旨

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利己的人間に満たされた都市は崩壊する。利他的に生きなければ都市に未来はない。組織のメンバーは、とかく組織が自分に何かをしてくれることを期待しがちである。

景気が悪くなれば、政府の景気対策を非難する経営者がそうだ。教育の問題をすべて学校のせいにする親もしかりだ。枚挙にいとまがない。まずは、自分が人のために何ができるかを各人が考え、それをうまく実行するために集まる。こうしてできた共同体が、企業にも、公的機関にも、政府にも、都市のあらゆる組織に自然発生することだけが、都市を救うのだ。

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posted by かせっち at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビ&映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

左翼と宗教

本日の中共・半島オチ(陳さんのWorld view)

左翼思想と一神教の関連について。

(エントリより)
▼耐えろ,負けるな「李明博大統領」(中韓を知りすぎた男)

左翼の思想とキリスト教の類似点について書かれているのです。
日本でも反天皇・反日の丸君が代・反資本主義しているキリスト教関係者は多いです。
なぜでしょうか?
天皇が一神教が目の仇にする八百万の神々を祀る神道の大祭司であるというのはさておいて、韓国・日本と共通する理由を述べますと、マルクス主義とはユダヤ・キリスト教文明から生まれたものであるからです。わかりやすく書きますと、
ユダヤ教から原始カトリック教が生まれ、カトリック教からプロテスタントと英国国教会が生まれ、プロテスタンティズムによって誕生した資本主義の中からマルクスレーニン主義が生まれました。
つまり、これは同一文化の中で生まれた兄弟宗教なのです。
私は以前、カトリックの修道院から神様とミサを取り除いたら共産党のコルホーズだと思っていましたが、九評共産党を読んで考えが変わりました。
マルクス主義と毛沢東思想・主体思想と名前はなんでもいいのですが、これの亜流は、全て宗教です。
posted by かせっち at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月10日

人権擁護法案:自民党人権問題等調査会

2008/5/29に開催された自民党人権問題等調査会について。

動員・昨日の自民党人権問題調査会は法案推進派が目立ちました(国を憂い、われとわが身を甘やかすの記)

(エントリより)
 本日は29日に開催された人権擁護法案の成立を目指す自民党人権問題調査会(太田誠一会長)の第12回会合の模様を、例によって原川記者のメモをもとに報告します。できれば今朝の産経政治面の記事「賛否両論派なお溝」をご参照いただきたいと思います。イザブログの字数制限(1万字)に引っかかるため、一部を省略したことをお断りします。やはり字数の関係で私の感想は入れないこととし、メモをそのまま提供します


人権問題調査会と、韓国の双子の赤字 (新世紀のビッグブラザーへ blog)

(エントリより)
 産経新聞の報道は、かなりこの問題の核心をついています。
■衛藤参院議員の言う「そんなに人権委員会を作りたいならば公権力による人権侵害に限定した組織をつくるべきだ」ですが、国連の勧告がそもそも「公権力による人権侵害」を防止しろ、というものだったので、まことに理に叶っています。しかし公権力による人権侵害の防止を、当の公権力である「法務省」に所管させているわけですから、端から無理な話です。
 そもそもの本問題の根本は、ここにある気がします。


【正論】日本大学教授 百地章 新・人権擁護法案の危険性(産経)

(エントリより)
 「『話し合い解決』等による人権救済法」(案)−。これが旧「人権擁護法」(案)に代えて自民党執行部(太田誠一・人権問題等調査会会長)が提出してきた法案である。一見、ソフトなイメージだが、その危険性は旧法案と全く変わらない。

 本法案では、旧法案にあった「一般救済」の対象を「憲法14条が定める人種等による差別」など5種類に「限定」、「特別救済」についても「話し合いによる解決」と名称を改め、対象を「公務員及び事業者・雇用主が行う差別的取扱い」など5類型に「限定」しており、「委員会」による権力の乱用や恣意(しい)的行使はあたかも抑制できそうである。

 しかしながら、前者について言えば、「憲法14条が定める人種等による差別」の中には当然「思想・信条」や「社会的身分」による差別を含め「一切の差別」が含まれるから(判例、通説)、「救済」の対象は旧法案と同様、際限なく広がり、権力乱用の危険も増大する。

 つまり、「任意」とはいえ、行政委員会が常に国民に目を光らせ、人権侵害の申し立てがあれば法務局に代わって委員会が国民生活の隅々にまで介入・干渉することが可能となる。

2008年06月09日

東京に住む負担

自分が家を買うことを初めて東京に住む親族に告げたとき、反応は次のようなものだった。


「何だ、その家の値段は!?

 お前は騙されて安物を掴まされたに決まっている!」



まぁ築26年の木造建築は安物といえるだろうが(苦笑)、不動産価格には建物だけでなく土地も含まれている。今回のケースでは占める割合が大きいはずの土地の価格を考慮しなければ、高いか安いかは判断できない。

「騙された」呼ばわりにカチンと来たこともあり(笑)、早速自分が住む浜松と親族が住む東京の公示地価を調べた。公示地価では実勢価格と乖離があるが、東京と浜松を比較する分には十分目安にはなるだろう。

以下は今回の物件を買った当時の平成19年度の公示地価のデータである。


平成19年地価公示(国土交通省)
【表】第5表 東京圏の市区の住宅地の平均価格等
【表】第14表 人口10万以上の市の住宅地の平均価格等

土地の価格について(浜松市)
平成19年浜松市内の地価公示価格の概要(平成19年1月1日時点)(PDF形式:37KB)


これによると、東京都の平均価格は最高で180万円/u、23区内最低で26万円/u、都全体での最低は11万円/uとなる。別の資料によれば23区平均で50万円台/u、都全体平均でも30万円台/uになる。

一方、浜松市の平均価格は7.6万円/u。つまり23区内で土地を買うなら浜松の約7倍、都全体でも約5倍は払わなければならない。そして都全体での最低平均価格は、浜松の高級住宅地並の値段なのである。


地価が5倍以上も違う土地の感覚で言われてもねぇ

まぁ、東京風吹かしてんじゃねぇぞ、と



ところで今回の比較で痛感したことは「東京に住むことの負担」である。

土地代が5倍以上違う不動産を買うとなれば、頭金+ローンの負担も5倍以上になる。更に取得した土地(と建物)に対して毎年発生する固定資産税・都市計画税も5倍以上のドライブかかる。

また商業地の地価も同様に数倍の差があるはずだから、東京で商売をする際の賃料負担も同じく数倍となる。その負担は最終的には価格に転嫁されることになり、これは賃貸居住者にとっても無縁ではなくなる。


このように考えると「東京に住む」こと自体が

人生にかなりの負担を強いているのではないだろうか?



東京出身の自分が当初一戸建てなど夢想だにしなかったのも、不動産売買を経験した保田隆明氏が家を買うことの危険性を説くのも、暗黙のうちに「東京に住む負担」を前提にしているからのように思う。

しかしこれは裏を返せば「東京に住まない」という選択をすれば、自分の例のように、過大な負担をせずとも不動産を取得する方法はあるということでもある。

無論、東京に住むことが全て悪というわけではない。地価は「その土地に対する人々の需要」を反映したものと言えるから、東京は浜松の5倍以上の需要があることになる。それは取りも直さず経済規模の差だろう。

浜松にも東証一部上場企業の本社や拠点が幾つかあるものの、その数も規模も東京の比ではない。更に裾野の広がりを考えれば、ビジネスチャンスは5倍どころではなく、東京に太刀打ちできるものではない。

しかしビジネスチャンスが小さいところでも、そこで十分暮らしていけるだけの報酬が得られ、そこで暮らしていくことに不満がないのであれば、過大な負担を強いずとも家を購入することは十分可能と言える。


大きなビジネスチャンスのために過大な住居費を甘受するか

軽い住居費負担の引き替えに小さなビジネスチャンスに甘んじるか

それは本人の選択の問題



まぁ後者を選んだ自分の意見など、東京駅や新宿駅の雑踏にすっかり着いていけなくなった、田舎者の負け惜しみと受け取ってもらって結構ですが(笑)


参考:
保田隆明の時事日想
初めての不動産売買(1)――中古と新築、どちらがいいのか?
初めての不動産売買(2)――新築マンションに住まずに売ることになったワケ
初めての不動産売買(3)――マンション売却なんて、もうこりごりだ
初めての不動産売買(4)――マイホーム購入の夢と理屈

少しは持ち家派の肩ももっとくか(404 Blog Not Found)
posted by かせっち at 21:32| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月03日

一戸建て購入騒動:入居

前回からの続き)

不動産の正式手続きを経て、リフォーム会社に耐震補強と内装改装を発注。工事は1ヶ月ほどで終了し、4月の半ばに入居した。住み始めて現在で1ヶ月半経ち、当初は気が付かなかったことが色々目に付くようになった。

まず洗面所の水道から赤水が出る。リフォーム会社によると、キッチン周りは耐震補強工事で新しい配管に変えたが、洗面所周りは既存配管を流用しており、1ヶ月の工事の間に水の入れ替えがなかったことが赤水を出やすくしているらしい。

水をどんどん流せば錆も落ち着いてくるのではないか、とのことだが、洗面所は朝晩しか使わないので、水の入れ替えには時間がかかりそう。しかしリフォームの際に水道管の交換に思い至らなかったのは、少々不覚…

次にキッチンに湿気が溜まり易い。これは洗った食器や絞った台拭きの乾きが悪いことで気が付いた。家を閉め切ることが多い上に、一番風通しが悪い場所にあるようだ。窓や換気扇を使って積極的に喚起することが必要。

更に風呂の床タイルの一部がはげて下地が露出。元々古い作りの風呂場だったので、いつか改装しようと思っていたが、放置すると腐食が進むので、前倒しで床・壁タイルの全面貼り替えを近日中に予定。ああ、ボーナスが…(泣)

大きな問題点はこれくらいだが、他に特に不具合はない。リフォーム会社は要望通りの内装にしてくれたし、予算の都合上リフォームの範囲を最低限に抑えてしまえば、このようになるのは致し方ないところだろう。


今後は自分の懐具合と相談しながら

中古車のレストア感覚で補修していきます

こりゃ確かに一生遊べそうだわ(苦笑)



このシリーズの締め括りは、入居に当たって必要だった諸手続きについて。


・住民票の移転

引越しをするわけだから当然必要。申請場所は市役所。新しい住所の住民票の写しが後の手続きで必要になるので、同時に4枚ほど取得する(有料)。


・不動産取得税

不動産を取得したときに掛かる都道府県税。静岡県では取得から60日以内に県の財務事務所に申告することになっている。尤もこの制度を知らない人もいるので、県の財務事務所が独自に調査を行って納付書を送っているという。

取得した不動産の土地・建物の状況に応じて税控除が受けられる。この際、登記簿謄本、住民票、建物の建築確認書、公図、認印などが必要。詳しくは県の財務事務所へ。


・登記簿謄本の現住所変更

不動産取得の時点では通常その家には住んでいないので、登記簿謄本の現住所は不動産取得時に引っ越し前の住所になる。よって引越しを済ませたら、登記簿謄本の現住所を新しい家の住所に変更しなければならない。

登記移転時のように司法書士に任せてもいいが、自分でやれば印紙代¥2,000で済む。申請場所は法務局で、提出書類の書き方は窓口で教えてくれる。登記簿謄本、住民票、認印などが必要。詳しくは法務局へ。


・警察関係

警察関係での住所変更は運転免許書と車庫証明。申請場所は新しい住所を管轄している警察署。運転免許書は住民票と認印などを用意し、窓口で所定の手続きをすれば、即日免許証に新住所を裏書してくれる。

車庫証明は時間がかかる。まず所定の書類に車の登録状況や車庫の場所・寸法などを書き込んで提出。その後警察が提出された書類を元に車庫を調査し、1週間前後で証明書を発行する。詳細は警察署へ。


・車検証の現住所変更

車検証の現住所変更には車庫証明が必要なので、車庫証明が取れないと手続きが進まない。その他住民票、認印など。申請場所は陸運局。最近は自分でやる人が多いせいか、手続きの仕方のマニュアルが用意されている。


引越し後の諸手続きには色々な役所を回らなければならない。平日昼間しか開いていないので、休暇を取って1日潰す覚悟で。

(おわり)
posted by かせっち at 22:04| Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月01日

終わりの日に会ったあいつ

当ブログは元々車関係のサイトの時事ネタコーナーが独立したものだった。しかし最近は自分の中で車に対する興味が薄れてしまい、本家の更新はずっと滞っていた。

また、自分が書きたいことが車関係の本家サイトでは収まりきらなくなってきてることもあり、活動の本拠を当ブログに移し、本家サイトは今月を以って終了することにした。

思えば、自分の愛車を弄り倒す様子を世間に晒したのが事の始まり。同じ車に乗る同好の士ともインターネットで親交を結び、オフ会にも度々顔を出した。

色々なことがあったなぁ…と思いつつ、車を運転していると、何と偶然にも自分が前に乗っていた車とすれ違った。


何故自分が前に乗っていた車かわかるのかって?

自分が装着した社外パーツがそのまま着いていたからさ



パーツを一つ一つ吟味して改造していった先代の愛車は、今の愛車を購入する際にそのままの状態で下取りに出し、買い取ったディーラーがオークションに出した後は行方知れずになっていた。

あんな酔狂な格好の車をそのまま買う人がいるのか、もしかしたら純正パーツに戻されているのかも、と思っていたのだが、どうやら全く同じ状態で使われているようだ。


愛車を紹介するためのサイトの終了を宣言した日に

かつての愛車を目撃するとは、これも何かの縁だろうか
posted by かせっち at 21:22| Comment(2) | TrackBack(0) | クルマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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